れたのは去年の十一月の始めであつた。牧野さんは睡眠中で、出てきた奥さんがまたひどい神経衰弱で殴られ通しだと訴へた。何とかいふ面倒くさい名前の催眠剤を一々丁寧に桿《はかり》にかけて呑んでゐると聞いてゐたが、会つてみると、私と以前反目した時のやうに神経的な苛立たしさは見受けられず殆んど変りがないやうだつた。どうしても小説が書けないとこぼしてゐた。小説が書けなくなつたと言ひだしたのは最初に小田原へ越した時からで、その頃から牧野さんは数へるほどしか小説を書いてゐない。主として随筆と文芸時評(これは早稲田文学の再刊と同時にはじめて書きはじめたもので、自分でも文芸時評の書けることが分つたといつて大変よろこんでゐたものだ。そのころから小説が書けなくなつてゐたのである)その他雑文の類ひしか書いてゐないやうである。
今年になつて三度会つたが、私の会つてゐるうちは昔と全く変らない牧野さんであつたのである。
今度の夫婦別居のことが自殺の原因のやうに大袈裟な問題になり、新聞では奥さんがひどく悪者になつてゐるが、これは確かに不公平だ。第一に、なんといつても自殺の真の根幹をなすところは彼の生涯の文章が最も明
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