つくり変えてしまふ人はなかつた。文学は自然を摸すとは彼の場合大きな嘘で、自然の方が彼の場合つくり直されて現れてくる。
 たとへば「心象風景」に現れてくる人々の生活、あれは小田原の実在の人物達の生活だが、もしも私が小田原で牧野さんの説明なしにあれらの人々に会つたとしたら、それらの人物があの小説の人々のやうに行為するとは夢にも思へぬことだらう。私は牧野さんからあれが誰、あれが誰ときかされた上で、彼等に会つたが、彼の示す角度から見る限り、彼等が余りにも牧野さんの小説に一分の狂ひもなく合つてゐるのに吃驚《びつくり》した。牧野さんの小説は余りにも非現実的のやうであるが、彼の指示する現実を見れば、彼の芸術が非現実的である限り、現実も亦同等に非現実的であつたのである。彼は不思議な、然し至妙なリアリストであつた。
 このことは、いづれ再びくはしく論じ直したい。

 彼の死ほど物欲しさうでない死はない。死ぬことは、彼にはどうでもいいことだつた。すべてはただ生きることに尽されてゐた。彼の生は「死」の影がすこしも隠されてゐない明るさのために、あまりにも激しく死に裏打されてゐた。生きることはただ生きることそれ
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