た夢の世界へ誕生してゐる事実に就ては、秋水は何も知らなかつた。そこへ小僧が帰つてきた。
「オイ、小僧。お前は恋をしてゐるのか。可憐なことだ。こゝへお坐り。お前の悲しみに就て語つてきかせて呉れ。お前はその娘の目が好きなのか。亜麻色の髪の毛だけに恋をして痩せたといふ子供があるのだからな。その娘はお前を見ると今日はを言ふ前にきつと何か意地の悪い仕種《しぐさ》を見せるに相違ない。女は生れたときからもう腹黒いものだからな。ところが、そこが、男の気に入るといふわけだ。男はいつも傷だらけだ。靴となり、あの子の足に踏まれたい、か。お前の娘は、年はいくつだね」
「娘なんか、知らないや」
 と、小僧は腹立たしげに答へた。彼は吹けば飛びさうな三平を大いに軽蔑してゐたばかりか、腕力的にも優越感をいだいてゐて、全く見くびつてゐたのである。
「へん、ここは酒屋ぢやないや。店を締めるから、どいとくれ」
「ヤイ、コラ。無礼者」
 秋水は立上り、小僧の胸倉をとつて二三べんこづき廻した。測らざる伏兵が暗闇から現れたので、小僧はふるへ上つてしまつたが、時々どこからともなく現れる共産党くづれの生臭坊主は彼の恐怖の的であつた。なぜなら彼は共産党時代に牢獄で受けた拷問の実演を見せるために、小僧を後手に縛りあげて柱に吊し、長々と説明しながら「助けて下さい」と言ふと尚高く縄を吊りあげ、ブラ/\するとドサリと畳へ落しておいて頭から水をあびせるからであつた。「この吊り下げた足もとのところへ脂汗がタラリ/\と落ちるものだ。脂汗といふ奴は普通の汗と違つて粘り気があるから、崩れて流れずに一寸ぐらゐの山の形につもるものだぜ」秋水の説明が小僧の頭に悪魔の咒《のろ》ひの声のやうに残つてゐる。
「お助け下さい。秋水さん」
「お助け下さいとは何事だ。お助け下さいとは、お前が何も悪いことをしないのに、人が鼻先へ刀を突きつけた時に言ふことだ。そもそも拙僧を秋水さんとは不届千万な小僧め。主人の不在のたびに店の品物を盗みだして喫茶店へ通ふとは言語道断な奴だ。天に代つて取り調べてやる。貴様の惚れた娘といふのはいくつになる」
「三十八です」
「三十八の娘があるか」
「いゝえ、嘘ではないです。ア、ア、痛々。お許し下さい。死にます。死にます」
「その店の名はなんといふか」
「オボロといふオデン屋ですよ」
「フーム。オデン屋か。奇怪千万な奴だ。貴様は毎日何本飲んでくるか」
「僕は酒なんか飲まないですよ。焼芋を食べるだけですよ」
「フーム。オデン屋で焼芋を売るのか」
「いゝえ。姐さんが毎日たべるのです」
「いくらで売るか」
「タダですよ。本を持つてくれば幾つでも食べていゝと言ふのです」
「こんなに暗くなるまで焼芋をたべてゐるのか」
「いゝえ。お風呂へ行つてくるから留守番をしろと言ふものですから、それに僕は近頃憂鬱ですから、店へ帰りたくないです」
「あたり前だ。店の本をチョロまかして焼芋を食はされた時には人は誰でも憂鬱になるものだ。アッハッハ。これは面白い。よろしい。その店へ案内しろ。我々は本を差上げて酒を飲もう。お前は本を担いで行け。姐さんはどういふ本が好きか」
「それは純文学ですよ」
「ナニ。純文学か?」
「えゝ。低級な小説は読まないですよ。とても教養が高いです。僕がジッドやヴァレリイを選んでやるから、お前は目が高いと言つてゐるですよ」
「なるほど、お前は目が高い。本屋の小僧には惜しい男だ。アッハッハ。これは耳よりな話があるものだ。オイ、三平、我々は婚礼をやめて、文学オデン屋へ出掛けようや。世の中の片隅には飛んでもない処が在るものだな。オイ、小僧。お前は高級な本を選んで包め」
「俺はさういふ薄汚い話はきらひなんだ」と三平は抗議した。
「ちつとも薄汚くないぢやないか。さういふ考へだから、お前の小説はいつまでたつても風呂屋のペンキ絵みたいの贋物なんだ。人生の修業をしろ」
「俺は人生の修業はきらひだ。焼芋とヴァレリイの組合せが人生なら、俺は首をくゝつて別の国へ逃げて行かあ。そもそも汝富永秋水は保坂三平を何者と考へるか。余はもと混沌を母とし、風に吹かれて中空をとぶ十粒の塵埃を精霊として生れた博士であるぞよ。書を読めば万事につけて中道を失ひ駄法螺《だぼら》を生涯の衣裳となし、剣を持てば騎士となつておみなごのために戦ふけれども連戦連敗、わが恋の報はれたるためしはない。されば余は常にカラ/\と哄笑し、事あるたびに壁となつたり※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の卵となつて身を隠したり、痩せても枯れても焼芋とヴァレリイのカクテルから小僧のニキビを生みだすやうな下品な手品は嫌ひなんだ。エイ、者共、余につゞけ。嵐が近づいて来たぞよ。余は自ら一陣の風となつて宇宙と共に戦ふであらう。小僧よ。鐘を鳴らせ。貝を吹け。戦へ、戦へ」
 こゝから事態がどうなつたか、之はもう誰にも分らない。
 話は変つて、信助は新刊書の包みを背負つて、とある病院の外科の診察室へ這入つて行つた。外科の先生の南雲稔は読書家で、新刊の高価な本を無雑作に十冊ぐらゐ買つてくれるからである。
「丁度良いところへ来てくれたな。今晩は手術もないし、今すぐ終るところだから待つてゐてくれ。夕飯を食はふぢやないか。待つのも手持無沙汰だらうから、手製の珍品を御馳走しよう。おい/\。例の品物をとりだしてくれ。患者の方は構はないから三文堂に御馳走を調合してやりたまへ」
 そこで看護婦は二本の瓶と水差をお盆にのせて現れてきた。一本の瓶は薬用アルコールで、他の一本は何とかいふ風薬からこしらへた代用の砂糖水だと言ふのである。はからざるアルコールの出現に、看護婦がまた目盛のあるコップに薬と同じ要領で調合するから、信助はもう飲まないうちから奇妙な気持になつてゐる。見廻す四方は金属の医療器械と鉄のベッドとメスとピンセットの皿であるから、信助の想念はむやみにふくれあがり、表現に窮して全然喋る言葉がない。思ひつめた顔をしてアルコールを飲んでゐる。すると騒々しい物音が起つて、騒ぐ跫音、バタン/\といふ扉の音、金切声が入りみだれて湧き立つてきた。
「こゝは内科ですよ。いけない、/\。そつちは婦人科ですよう。どうしたの。酔つ払つてゐるの。そんなところで上衣を脱いぢやつて、アラ/\第一、この人は靴をはいてゐるよ。あなたはどこが悪いんですか。精神病科はこの病院にはありませんよ」
 と一人の看護婦が叫んでゐるうちに、外科室の扉が押しひらかれて、蒼白な顔をした芥中介がフラ/\と扉につかまつて崩れこんできた。彼の最初に発した声は「やられた!」といふ一語であつた。
 南雲稔はかねて芥中介の詩を愛読して一個の鬼才を認めてゐたから、町では名題のこの悪童を相当なる敬意を払つて遇してゐる。けれども中介は人が才能を認めてくれるとそれが当り前だと思つてつけ上るばかりであるから、稔も一方に腹を立てゝもゐるのである。
「さては喧嘩をしたね」
「ジャコビン党の手先にやられた。あの奴らは暗殺の常習者だから、胸のポケットに毒針まで隠してゐやがる」
 中介は鉄のベッドに縋りついて、全身からの太息をもらした。
「俺の命は明日の朝まで危いのだ。注射をたのむ」
「どこをやられたね」
「身体中を探してくれ。血管の中も調べてくれ」
「どこで誰にどうされたのだ。見れば酔つ払つてもゐないぢやないか」
「ヤヤヤ」
 中介はこのとき鉄のベッドの後側に目盛のコップを握つてゐる信助を認めて、悲痛な叫び声をあげた。彼の蒼白な顔は絶望と驚愕のために紙の面のやうになつた。
「あゝ、余は敗れたり矣! お前はこゝへ先廻りをしてゐたか。敵ながら賢明なるジャコビン党よ。見かけによらぬ強敵だ。吾あやまれり矣! 敵の智謀を見損つてゐたのだ」
「はてね。君は信助君と喧嘩をしたのか」
「嗚呼《ああ》余は実に彼の女房の女ジャコビン党員に毒殺されたのだ」
「フーム。その毒は飲まされたのか、それとも注射か」
「分らない」
「なぜ」
「気がついたときは部屋のまんなかに倒れてゐた。全身が毒にしびれ、頭が火のやうに焼けてゐる。俺の命も今夜限りだ」
「どれ、お見せ」
 そこで稔は中介を裸にさせて全身をしらべ、舌をださせたり、目蓋の裏をひつくりかへしたり、最後に頭を調べて、中介が悲鳴をあげて飛びあがると、やうやく万事が分つたのである。
「女ジャコビン党員は後方から棒でもつて殴つたらしいな。さもなければ、何かのハズミに君がひつくりかへつて後頭部を打つたのだらう。相当な打撲傷はある。だが、傷ができて血も流れたから、大したことはない。テロリズムの被害のうちではカスリ傷といふものだらう」
 稔は中介の髪の毛を切り、わざと手ひどく痛む薬をぬりつけた。中介は歯を喰ひしばり、陰々たる苦悶の呻きをあげて鉄の椅子にしがみついてポロ/\と涙を流したが、泣きながら信助のコップを指して訊ねた。
「お前の飲んでゐるのは何か」
「薬用アルコールと風薬のカクテルださうだよ」
「俺にも飲ませろ」
「明日の朝まで命の危い病人がアルコールを飲む手もなからう」
 と稔がとめたが、中介は言ひだした以上はきかないのである。かういふ男は猛獣なみの生理と心得てよろしからうと、稔もあとは見ぬふりをしてゐると、中介は飲みほして、ハイ、お代り、看護婦を女給と心得てコップを突きだす。看護婦は怒つて振り向きもしない。けれども中介はいさゝかも弱らず、瓶を一つづゝ鼻にあてゝ嗅いでみて、心得顔に目盛に合せて注いでゐる。
「エッヘッヘエ。お前は何度ジャコビン党に殴られたか」
「俺はまだ殴られたことがない」
「アッ、さうだ。今夜は朴水の婚礼だ。今頃はみんなお前の店先へ集つて出掛ける時刻ぢやないか。出掛けないと遅れるぞ」
「そんな話はきかないよ。お前は脳震盪を起してボケたのだらう」
「さては、さういふ事の次第かな。然し、待てよ。青眠洞がたしかに廻覧をまはしてよこして、娘が持つてきた筈だが」
「だから、それが幻覚といふものなんだ。第一、朴水の婚礼などが有る筈があるものか」
 ウームと中介は目をまるくして考へこんでしまつたが、気を取直して景気よく飲みはじめた。けれども酔ひがまはるにつれて、彼の意識はいくらか常態にもどつてきた。吾は目覚めたり! と彼は叫んで突然立上つてゐた。
「朴水の婚礼は幻覚ではない。先づ我等は青眠洞を訪ねてみよう。さうすれば万事は分る。けれども、もし幻覚だとこのアルコールが残念だから、この瓶にかう蓋をつめて之をポケットに入れて持つて帰らう。このコップも目盛があつて便利な仕掛であるから、之は紙につゝんで手に持つて行かう。水はどこかのウチの水道があるから、之は多分いらないだらう」
 中介は手際よく始末して信助をうながして病院をでた。病院から青眠洞まで長い道のりであるから、二人は時々見知らぬ家の水道をもらつて目盛をはかつて酒もりをした。青眠洞の店の奥では幽かな燈火の下でオカミサンがスルメを焼いて子供達に食事をさせてゐた。中介は挨拶の代りにスルメをつまみあげてものゝ五分間もかゝつて呑みこんだ。
「このアルコールには殺気が含まれてゐる。メスの刃のしたゝりだ。スルメによつて、この毒を消すことができる」
「あんたは朴水さんの婚礼に行かないの」
「ヤ、ヤッ。見よ。まさに、それだ! さあ、停車場へ急がねばならぬ。とはいへ電車の時間があるから、おい、今度の発車は何時だ。電車の中のオカヅにはこのスルメが調法だから、之を紙につゝんで」
「駄目だよ。ウチのオカヅがなくなるよ」
「俺のオカヅもなくなるよ」
 と中介は無理無体にスルメをポケットへねぢこんで、停車場へ向つて駈けだした。

 朴水の家ではてんで花嫁が顔を見せずに、然し、婚礼は盛大に進んでゐた。田舎の農家であるから燈火管制などは全然黙殺されて燈火は煌々とかゞやいてゐる。酒のために照りかゞやいた朴水は花聟の喜びに満悦して鼻ヒゲまでが生き生きと酔つぱらひ、一座の面々も大いに酔つてゐるけれども、まだ乱れてはゐないのである。之には多少の理由があり、朴水はともかく帝展の審査員であるから、一同も十分の一目ぐらゐは
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