朴水の婚礼
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)性質《たち》

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(例)※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1−85−31]なのが

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)オイ/\
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 朝巻信助は火星人といふ渾名であつたが、それは頭デッカチで口が小さいといふ意味ながら、顔が似てゐるためではなく、内容的な意味であつた。彼は親友が死んだとき、泣いてゐる奥さんの前で「彼の死は悲しむべく然し、それは目出度いことである。さうでもないか。然し、とにかく――」かう言つて絶句してしまふのであるが、それはつまり彼が平常色々の考へごとをしてゐるからで、死といふことに就いてもかねて色々に考へてゐるから、単純に死は悲しいといふやうな表現ができない。生憎彼は非常に表現の下手な生れつきで、精神内容を表現しきれず、事あるたびに奇妙なことを口走る結果になつて、怒られたり笑はれたり蔑まれたりしてゐる。だから火星人といふのであるが、この渾名は好意的な解釈であるから、つまり彼は友達にだけは精神内容の豊富な点を認められてゐるのであつた。尤も彼の奥さんは猛烈なる信助ファンで、彼に表現の才能がめぐまれてゐるなら世界一の文豪になつたであらうと信じてをり、だから詩人の芥中介が口の悪い生れつきで臆面もなく「何だい、信助の頭は蛸の脳味噌と同じだよ。蛸が生ジッカ人間の本など読みやがるから、口をとんがらして飛んでもないことばかり口走りやがる」などゝ言ふから大変な喧嘩になる。
「なんだい、三文詩人」
「ヘヘイ、さればとよ」
 中介は、女が相手でも子供が相手でも真剣に喧嘩をする性質《たち》であつたが、さればとよ、とか、さもあらばありけれ、などゝ不思議な咒文《じゆもん》を発するときは、戦意昂揚の証拠なのである。
「ヘヘイ、満場の諸君。余がつとに研究蒐集中の奇怪なる動物を公開するに当りまして、本日は先づ一匹の怒れる蛸の妻君を――」
 突然音がした。中介は上衣を脱いで御丁寧に壁にぶらさげ、おもむろに部屋を歩いて演説中のところであつたが、部屋の中央にひつくり返つてノビてゐた。信助夫人が摺子木棒《アタリボー》をふりかぶつて、どこだか分らず振り下したのが、どこだか分らず命中したのである。這般《しやはん》の立廻りの実況に就ては、他に目撃者がゐなかつたから、これ以上のことは分らない。
 信助夫人は良人《おつと》の店へ飛んで行つた。彼は駅前に本屋を開いてゐたのである。生憎なことに信助は新刊書を売込みに顧客廻りにでかけてをり、店の前には梯子がかゝつてゐて、梯子の上にはペンキ屋の親父が看板を書いてゐた。このペンキ屋は青眠洞主人と号する素人考古学者で、信助の親友であつた。
「あゝさうかい。あんな奴は当分眼を廻した方がいゝよ」
 と考古学者は梯子の上から返事をした。
「時に、丁度よいところへ来てくれたよ。実はね、あんたの処へ使ひの者をださうと思つてゐたところだよ。絵描きの朴水のところで婚礼があるさうでね、あいにく朴水のお母さんが病気ださうでね、料理人が足りないから応援たのむといふわけだが、見廻したところ子供のないのはあんた一人だけだから、直ぐ行つてやつてもらひたいね」
「オヤまあ、どなたの婚礼ですか」
「朴水さ」
「朴水さんは奥さんがお有りでせう」
「あゝ、あの奥さんの婚礼さ」
「あら奇妙ね。あの奥さんなら、もう年頃の娘さんまで有るぢやありませんか」
「それがね。朴水は今まで婚礼を忘れてゐたさうでね。四五年前に思ひ立つたんだとよ」
「ずいぶん長く忘れてゐたのね。よりによつて近頃のやうに物資不足の折にねえ」
「物資不足だから婚礼を思ひ立つたんだよ。かういふ折でもなきや婚礼なんぞは三文の値打もないものさ。とにかく、なんだよ、うちの子供を留守番に廻しておくから、さつそく出かけて下さい。なに、料理なぞは馬の食物でなきや何でもいゝのだからね」
 あまり世間に聞き馴れない話に気が軽くなり、家へ帰るよりはこの方が都合がよいと、そのまま朴水の家へ行つてしまつた。
 婚礼の廻状は一日前に廻つてゐたが、信助だけがまだ知らなかつた。けれども、隣駅まで電車で行くのであるから、集る場所は駅前の信助の店で、不都合のある筈はないときめてゐたのが間違ひのもとだ。夕方になつて諸方から十名程集つてきて、青眠洞なども家へ帰り一風呂あびてインキを落して紋服を着用して現れたが、二名足りない。信助と芥中介である。中介は酒癖が悪いから当分眼を廻させておく方がいゝだらうといふことになつたが、電車の時刻が来て、信助が戻らぬばかりか、伝言を残して行く筈の小僧の姿まで現れない。この小僧は近頃新開地の喫茶店へ入り浸つてをり、主人が出掛けると、自分も出掛けてしまふ。店には人が居なくなり、頻りに本が盗まれるが、小僧の方も出掛けるたびに何冊かづゝ持ちだして寄贈するので、新開地の姐さんや与太者どもは近頃アンドレ・ジッドだのヴァレリイなどを読んでゐる。頭のネヂが狂つてゐるか、何べん叱つても無駄なのである。
「みんな先に行つてくれ。俺がこの店に居残つて、信助をつれて後から駈けつけるから」
 と言ひだしたのは保坂三平といふ私立大学教授の文士であつた。けれども之《これ》には条件があるので、三平が先頃から目をつけてゐるのは青眠洞のブラさげてゐる三升の酒であつた。元来三平の神経は特別脆弱で、酒を飲んですら、余程条件が揃はないと気焔が上らない。つまり青眠洞だの中介といふ豪傑と一緒に飲むと先を越されてしまつて、飲めば飲むほど鬱するばかり、どうしても酔ふことができない。彼が気持良く酔へるのは女房だの大学生を前に並べて大いに気取つて飲む時ばかりで、その大学生も多少頭脳名※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1−85−31]なのが現れて批判的な聞き方をしてゐると、彼はもう酔へないばかりか、ヘドを吐いたりするのであつた。まして今夜のやうに小田原屈指の豪傑が十何人も揃つた席ではとても酔へない。そこで出掛ける前に一杯飲んできたのだけれども、まだいけないので、青眠洞のブラさげてゐる三升のうちのなにがしを分捕り、信助の店へ残つて信助か小僧を相手に傾けたなら酔へるだらう。その勢ひで婚礼の席へ乗り込もうといふ企らみを隠してゐる。信助は火星人で口が廻らぬ男だから、この人物が相手なら三平も気焔を上げて酔へるのである。
「どうだい、遅れて行く代り、その酒を一本置いて行つてくれないか」
「そんなずるい手があるものか。それなら三合だけ置いて行かう」
「酒は朴水のところにも用意があるのだから、一升置いて行つてもいゝぢやないか」
「朴水はケチだから、いくらの用意もある筈がないさ。だから、かうして足りない分を用意して来たのぢやないか。酒といふものはみんな寄合つて飲むところに味がある」
 と青眠洞は酒の真理を主張したが、之は三平には通用しない。彼は必死の瀬戸際であるから、
「ぢや、信助のぶんと合せて六合」
「オイ/\。もう時間だぜ」
「何か酒を分ける容れ物はないか」
「三平は神経衰弱で永生きはできないのだから一升置いてつてやれ。どうせ俺達がお通夜の酒を飲むことになるのだから」
「容れ物がなければバケツぐらゐあるだらう。掃除ぐらゐはしてゐる筈だから」
「ウーム。バケツは――」
 と三平は顔色を変へて青眠洞の腕に縋りついたが、青眠洞は瀕死の瀬戸際の病人の枕元でも情実によつて動くところのない人物であつた。彼はコップを見つけだし、酒をなみ/\とついで先づ自分が一杯飲みほし、次に五六人に飲ませて一升を五合ぐらゐに減らしてから三平に渡した。
「遅れて来るとき信助に挨拶を述べさせちやいけないぜ。あいつは婚礼の時はきまつておクヤミを言ひやがる。朴水は担ぐんだからね。ぢや、先へ行くぜ」
 一行が立ち去つてものゝ十分とたゝないうちに上りだか下りだかの列車が着いて、駅前の通りを人がぞろ/\と通りはじめた。燈火管制でどの店からも火がもれず黄昏の舗道に跫音《あしおと》だけがゴチャ/\してゐる。すると、一人の男が暗い店先へ這入つてきた。
「ヤア、ゐるな。蛸博士」
「イヤ、信助は出掛けてゐるけど」
「なんだい。三平ぢやないか。之は都合が良い。信助を誘つてどうせ、貴公を訪ねるつもりのところだ。今朝まで大和の柳生の道場に泊つてゐたがね、久しく寺を無人にしておいたから、そろ/\甲州へ帰らうと思つて。お経が巧くなつたから、読んできかせてやらう」
「イヤ、たくさんだ。俺が死んだときまで、しまつておいてくれ」
 現れたのは富永秋水といふ共産党くづれの坊主であつた。
 黒衣の僧服に振分荷物を担いで杖をついてゐたが、荷物の中からウヰスキーの角瓶をとりだした。
「ヤア、そこにも有るぢやないか。ヘエ、朴水の婚礼かね。丁度よい。俺がでかけて、お経をあげてやらう。暗いのは玉に瑕《きず》だが、久々に健康を祝すとしやうか。小田原は蒲鉾ときまつてゐるが、この節は売つてゐるかね」
 と忽ち姿を消したのは肴を買ひにでかけたのである。天帝の憐れみたもうた絶好の機会であると考へて、三平は逃げださうと試みた。なぜなら、共産党くづれの生臭坊主が現れたのでは、苦心の計も水の泡で、それぐらゐなら真ッ直婚礼へ行く方がましだ。けれども決心のつかないうちに、もう秋水は蒲鉾をブラさげて戻つてきた。表口からは売らないから、裏口からお経をあげて買つてきたのである。
 ところが不思議なことに、この日の三平は酔つ払つた。出掛けの酒がきいたのかも知れないが、暗闇で秋水の顔も形も見えないのが、彼の神経を逞しくしたのかも知れなかつた。三平は肉体も精神も脆弱で、痩せたチッポケな身体は婦女子の一突きによろける程であつたし、その精神は常に結論を見失つて迷路の中をあがいてゐた。まつたく彼が四十になつてもまだ生きてゐるのは不思議だといふ取沙汰であつたが、然し、彼のチッポケな肉体にも彼なみの烈々たる希望はあつたのである。それは「夢と現実」といふことの派生した一つの解きがたい謎に就ての考察であつた。
 現に、見よ。眼前の暗闇に対座してゐる秋水といふ坊主に就て考へても、彼は生臭坊主であり食ひつめた果の山寺住ひであるにしても、共産党の赤旗を担いだり、山寺へ閉ぢこもつたり、彼には彼なりの夢と現実の交錯があり、その解きがたい綾糸の上をもつれ歩いてゐるのであらう。下根の秋水如きは問題とするに足りない。共産党と坊主そのものに就て考へれば、彼らはいづれもこの現実に彼等の夢を実現し得るものと信じてゐる。前者は共産主義社会を、後者は悟り、法悦の三昧《さんまい》を。ところで文学はどうであるか。荘子は夢に蝶となり、この夢の中の夢の自分と、現世の人間と、いづれが果して真実の自分であるか、之は一方のみに規定しがたいことであると言ひ、デカルトも亦同じ疑問にとらはれてゐる。だが、かゝる素朴な夢問答はともかくとして、こゝに文学の問題として、共産主義者や坊主の如くに、現世に於て実現し得ると信ぜらるゝ如き夢が実在するか。かゝる夢とは幸福の同義語であらうけれども概ね、文学の問題としては、かゝる幸福の実在を否定し、迷路と混沌、悲哀や不幸や悪徳の上にせめても虚無の仇花を咲かせようとの類ひである。然らばかゝる仇花が文学の現世に於て実現すべき夢であるか。なるほど文学の一面にかゝる悲哀のオモチャとしての性質は不変絶対の相を示してゐるけれども、之のみが全部ではない。――こゝのところで三平の思索は常に中絶し、こゝから先は酒を飲み、気焔高らかに酔つたところで、新らたな出発が始まるといふ具合であつた。だから彼の文学は酒の中に再生することによつて辛くも命脈を保つといふ憐れな状態であり、彼が爽快に酔ふことを如何に熱烈に、又、必死に、欲してゐるかといふことは、これによつて想像される。暗闇の中で声のみを相手に酔ひの廻つた三平が、すでにもうこゝから無限の距離をへだて
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