置いてゐる。保坂三平と芥中介の二人だけが、あいつは背延びをしてやうやく一人前らしい絵をかいてゐやがるなどゝ言つて罵倒するけれども、外の連中はなんとか陰では言ふものゝ十分の一目ぐらゐは置いてゐる。それも時間の問題だ。酒はすべてを平等にする液体なのである。
そのとき台所の方に大きな物音が起つた。物の倒れる響、女の悲鳴、皿の割れる音。
「男らしくもないね。さすがに男の出来そこなひの三文詩人だ。今度は向ふ脛をお見舞ひするから覚悟はいゝね。ものゝ一ヶ月は窓の外の景色も見られなくなるよ」
と叫んでゐるのは信助夫人で、相手の声はきこえない。スハと一同が立上つて駈けつけてみると、信助夫人は鳶口《とびぐち》を下段に構へてヂリ/\とつめより、片隅には芥中介が一斗釜を楯にしてボクシングに身構へてゐる。信助夫人には余裕があつたが、中介はすでに連戦連敗の相をとゞめ、顔は凄惨な敗色によつて歪み又衰へ、息づかひは荒々しく乱れてゐる。信助夫人との間には三間ほどの距離があるのに、目をとぢて、右のアッパーカット、左のフック、左右のストレート、なにぶんフットワークを忘れてゐるから勢ひ余つて前によろめき、よろけたハズミに向きが変つて、全然方角の違ふ虚空に向つて、必死必殺のアッパーカットやフックやストレートを間断なく繰りだしてゐる。たゞ一人影を相手に戦闘を展開して、悶絶一歩手前の疲労状態に近づいてゐた。信助夫人が横手の方から忍び寄つて一押し肩を突きとばすと、中介はよろけて羽目板にぶつかり、ヘタ/\と崩れて動かない。全身が呼吸の波を打つてゐる。
彼はポケットのアルコールの瓶を探したが、上衣を脱ぎすてたことに気がつくと、上衣、々々、信助はゐないか、たのむ。然し、信助はすでにそのアルコールを左手に、右手には目盛のコップを握つて、これも一方の羽目板にもたれて、戦闘などには目もくれず飲みしれてゐた。彼はもう四辺の騒音も耳にとゞかず、羽目板にもたれてゐても足がふらつき、右に左にフラ/\ゆれてゐるのであつた。
「怖るべきアマゾンだ。俺は遂に敵ではない」
中介は感嘆の呻き声をもらして敗戦を明にし、もはや歩くことが出来ないので、這ひながら台所をでゝ、暗闇の外へ消えて行つた。一同は座敷へ戻つて再び酒宴がひらかれたが、俄に乱酔が始まつて、主客入りみだれて全員たゞゴチャ/\ともつれてゐる。そして敗残の中介などを思ひだす者はなかつたが、まして暗闇の奥に中介をいたはる者がゐようなどゝは気づく筈があり得ない。
「中介よ。我々は所詮女の敵ではあり得ないのだ。彼等は腕力すぐれ、常に悪智恵をはたらかし、事あるたびに人をだまし、陥入れ、人の目の玉へ指を突つこんで掻きまはし、人が水に溺れた時は石をぶつけ、一円借せば百円の利息を強奪し、年中ひそかに食べすぎて所きらはず吐いてゐる獣だからな。あゝ、気の毒な中介よ。お前だけはたつた一人の人間らしい人間だ。天帝よ。雷となつて俄に落ちよ。べッ、べッ。あの下劣、不潔なる酒宴を見よ。彼らはムク犬の尻尾を生やした呑んだくれ共だ。お前と俺だけが地上の二人の人間なのだからな」
と中介の背中をさすつてゐるのは三平であつた。彼は立廻りの始まる時に辿りつき、一部始終を暗闇に立ちすくんで、同情の涙を流して見とゞけたのである。
「いざ、孤独なる魂の古巣へ帰らむ。あゝ、道は闇い。風は冷めたい。然し、余は常にカラ/\と哄笑し、駄法螺を吹き、歌を唄ひ、身に危急の迫る時には一陣の風となつて打ちむかひ、かなはぬと見れば壁となり、又は蛙の卵となつて素早く難を避けるであらう。中介よ。余等は之より高らかにバルヂンを唄つて引きあげよう。いざ、嵐よ吹け。獅子よ吠えよ。戦へ、戦へ」
中介は起き上つて、再び台所へフラ/\と戻つて行つた。羽目板にもたれた信助はすでにウツラ/\としてゐる。中介は右手の瓶と左手の目盛のコップをとりあげた。信助は薄目をひらいて中介を見たが、すぐ目をとぢて再び眠りはじめてゐる。
三平は歌を唄ひ、中介は目盛のコップにアルコールを注いで、各々勝手な方角へ暗闇の底へ消えてしまつた。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新女苑 第一〇卷第三号」
1946(昭和21)年3月1日発行
初出:「新女苑 第一〇卷第三号」
1946(昭和21)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年11月8日作成
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