向きが変つて、全然方角の違ふ虚空に向つて、必死必殺のアッパーカットやフックやストレートを間断なく繰りだしてゐる。たゞ一人影を相手に戦闘を展開して、悶絶一歩手前の疲労状態に近づいてゐた。信助夫人が横手の方から忍び寄つて一押し肩を突きとばすと、中介はよろけて羽目板にぶつかり、ヘタ/\と崩れて動かない。全身が呼吸の波を打つてゐる。
 彼はポケットのアルコールの瓶を探したが、上衣を脱ぎすてたことに気がつくと、上衣、々々、信助はゐないか、たのむ。然し、信助はすでにそのアルコールを左手に、右手には目盛のコップを握つて、これも一方の羽目板にもたれて、戦闘などには目もくれず飲みしれてゐた。彼はもう四辺の騒音も耳にとゞかず、羽目板にもたれてゐても足がふらつき、右に左にフラ/\ゆれてゐるのであつた。
「怖るべきアマゾンだ。俺は遂に敵ではない」
 中介は感嘆の呻き声をもらして敗戦を明にし、もはや歩くことが出来ないので、這ひながら台所をでゝ、暗闇の外へ消えて行つた。一同は座敷へ戻つて再び酒宴がひらかれたが、俄に乱酔が始まつて、主客入りみだれて全員たゞゴチャ/\ともつれてゐる。そして敗残の中介などを思ひだす者は
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