筈の小僧の姿まで現れない。この小僧は近頃新開地の喫茶店へ入り浸つてをり、主人が出掛けると、自分も出掛けてしまふ。店には人が居なくなり、頻りに本が盗まれるが、小僧の方も出掛けるたびに何冊かづゝ持ちだして寄贈するので、新開地の姐さんや与太者どもは近頃アンドレ・ジッドだのヴァレリイなどを読んでゐる。頭のネヂが狂つてゐるか、何べん叱つても無駄なのである。
「みんな先に行つてくれ。俺がこの店に居残つて、信助をつれて後から駈けつけるから」
と言ひだしたのは保坂三平といふ私立大学教授の文士であつた。けれども之《これ》には条件があるので、三平が先頃から目をつけてゐるのは青眠洞のブラさげてゐる三升の酒であつた。元来三平の神経は特別脆弱で、酒を飲んですら、余程条件が揃はないと気焔が上らない。つまり青眠洞だの中介といふ豪傑と一緒に飲むと先を越されてしまつて、飲めば飲むほど鬱するばかり、どうしても酔ふことができない。彼が気持良く酔へるのは女房だの大学生を前に並べて大いに気取つて飲む時ばかりで、その大学生も多少頭脳名※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1−85−31]なのが現れて批判的な聞き方をしてゐると、彼はもう酔へないばかりか、ヘドを吐いたりするのであつた。まして今夜のやうに小田原屈指の豪傑が十何人も揃つた席ではとても酔へない。そこで出掛ける前に一杯飲んできたのだけれども、まだいけないので、青眠洞のブラさげてゐる三升のうちのなにがしを分捕り、信助の店へ残つて信助か小僧を相手に傾けたなら酔へるだらう。その勢ひで婚礼の席へ乗り込もうといふ企らみを隠してゐる。信助は火星人で口が廻らぬ男だから、この人物が相手なら三平も気焔を上げて酔へるのである。
「どうだい、遅れて行く代り、その酒を一本置いて行つてくれないか」
「そんなずるい手があるものか。それなら三合だけ置いて行かう」
「酒は朴水のところにも用意があるのだから、一升置いて行つてもいゝぢやないか」
「朴水はケチだから、いくらの用意もある筈がないさ。だから、かうして足りない分を用意して来たのぢやないか。酒といふものはみんな寄合つて飲むところに味がある」
と青眠洞は酒の真理を主張したが、之は三平には通用しない。彼は必死の瀬戸際であるから、
「ぢや、信助のぶんと合せて六合」
「オイ/\。もう時間だぜ」
「何か酒を分ける容れ物はないか」
「
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