三平は神経衰弱で永生きはできないのだから一升置いてつてやれ。どうせ俺達がお通夜の酒を飲むことになるのだから」
「容れ物がなければバケツぐらゐあるだらう。掃除ぐらゐはしてゐる筈だから」
「ウーム。バケツは――」
 と三平は顔色を変へて青眠洞の腕に縋りついたが、青眠洞は瀕死の瀬戸際の病人の枕元でも情実によつて動くところのない人物であつた。彼はコップを見つけだし、酒をなみ/\とついで先づ自分が一杯飲みほし、次に五六人に飲ませて一升を五合ぐらゐに減らしてから三平に渡した。
「遅れて来るとき信助に挨拶を述べさせちやいけないぜ。あいつは婚礼の時はきまつておクヤミを言ひやがる。朴水は担ぐんだからね。ぢや、先へ行くぜ」
 一行が立ち去つてものゝ十分とたゝないうちに上りだか下りだかの列車が着いて、駅前の通りを人がぞろ/\と通りはじめた。燈火管制でどの店からも火がもれず黄昏の舗道に跫音《あしおと》だけがゴチャ/\してゐる。すると、一人の男が暗い店先へ這入つてきた。
「ヤア、ゐるな。蛸博士」
「イヤ、信助は出掛けてゐるけど」
「なんだい。三平ぢやないか。之は都合が良い。信助を誘つてどうせ、貴公を訪ねるつもりのところだ。今朝まで大和の柳生の道場に泊つてゐたがね、久しく寺を無人にしておいたから、そろ/\甲州へ帰らうと思つて。お経が巧くなつたから、読んできかせてやらう」
「イヤ、たくさんだ。俺が死んだときまで、しまつておいてくれ」
 現れたのは富永秋水といふ共産党くづれの坊主であつた。
 黒衣の僧服に振分荷物を担いで杖をついてゐたが、荷物の中からウヰスキーの角瓶をとりだした。
「ヤア、そこにも有るぢやないか。ヘエ、朴水の婚礼かね。丁度よい。俺がでかけて、お経をあげてやらう。暗いのは玉に瑕《きず》だが、久々に健康を祝すとしやうか。小田原は蒲鉾ときまつてゐるが、この節は売つてゐるかね」
 と忽ち姿を消したのは肴を買ひにでかけたのである。天帝の憐れみたもうた絶好の機会であると考へて、三平は逃げださうと試みた。なぜなら、共産党くづれの生臭坊主が現れたのでは、苦心の計も水の泡で、それぐらゐなら真ッ直婚礼へ行く方がましだ。けれども決心のつかないうちに、もう秋水は蒲鉾をブラさげて戻つてきた。表口からは売らないから、裏口からお経をあげて買つてきたのである。
 ところが不思議なことに、この日の三平は酔つ払つた。
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング