、どこだか分らず振り下したのが、どこだか分らず命中したのである。這般《しやはん》の立廻りの実況に就ては、他に目撃者がゐなかつたから、これ以上のことは分らない。
信助夫人は良人《おつと》の店へ飛んで行つた。彼は駅前に本屋を開いてゐたのである。生憎なことに信助は新刊書を売込みに顧客廻りにでかけてをり、店の前には梯子がかゝつてゐて、梯子の上にはペンキ屋の親父が看板を書いてゐた。このペンキ屋は青眠洞主人と号する素人考古学者で、信助の親友であつた。
「あゝさうかい。あんな奴は当分眼を廻した方がいゝよ」
と考古学者は梯子の上から返事をした。
「時に、丁度よいところへ来てくれたよ。実はね、あんたの処へ使ひの者をださうと思つてゐたところだよ。絵描きの朴水のところで婚礼があるさうでね、あいにく朴水のお母さんが病気ださうでね、料理人が足りないから応援たのむといふわけだが、見廻したところ子供のないのはあんた一人だけだから、直ぐ行つてやつてもらひたいね」
「オヤまあ、どなたの婚礼ですか」
「朴水さ」
「朴水さんは奥さんがお有りでせう」
「あゝ、あの奥さんの婚礼さ」
「あら奇妙ね。あの奥さんなら、もう年頃の娘さんまで有るぢやありませんか」
「それがね。朴水は今まで婚礼を忘れてゐたさうでね。四五年前に思ひ立つたんだとよ」
「ずいぶん長く忘れてゐたのね。よりによつて近頃のやうに物資不足の折にねえ」
「物資不足だから婚礼を思ひ立つたんだよ。かういふ折でもなきや婚礼なんぞは三文の値打もないものさ。とにかく、なんだよ、うちの子供を留守番に廻しておくから、さつそく出かけて下さい。なに、料理なぞは馬の食物でなきや何でもいゝのだからね」
あまり世間に聞き馴れない話に気が軽くなり、家へ帰るよりはこの方が都合がよいと、そのまま朴水の家へ行つてしまつた。
婚礼の廻状は一日前に廻つてゐたが、信助だけがまだ知らなかつた。けれども、隣駅まで電車で行くのであるから、集る場所は駅前の信助の店で、不都合のある筈はないときめてゐたのが間違ひのもとだ。夕方になつて諸方から十名程集つてきて、青眠洞なども家へ帰り一風呂あびてインキを落して紋服を着用して現れたが、二名足りない。信助と芥中介である。中介は酒癖が悪いから当分眼を廻させておく方がいゝだらうといふことになつたが、電車の時刻が来て、信助が戻らぬばかりか、伝言を残して行く
前へ
次へ
全13ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング