ないが、たいへん慌ててしまつて、
「俺は今どうしていいか見当のつかない雲のやうなメランコリイの中で苦しんでゐる。君が精霊といふ結構な身分なら、なんとかして俺に勇気と楽しさを与へてくれ!」
 私は河田がなんと答へたか記憶してゐない。場面は突如一変して私は河田と肩を並べて美くしいブルバルを歩いてゐた。あんな美くしい道は日本には実在しない。絵ハガキで見たニースの海岸か、そのへんであらう。そこへ、私達の後から立派なタクシーが来たので河田はだしぬけに呼びとめた。
「ニコライ堂まで三十銭」
 あの男はよく三十銭に自動車をねぎつたものであつた。大概の運転手は返事もせずに行き過ぎてしまふのが普通であつた。ところが夢の中の車もまさにその通りであつた。否とも言はずに駆けぬけたのである。しかるところ十間と走らないうちに自動車は急停車した。動かなくなつたのである。ところが驚いたことには、置き残された筈の私達はちやんと自動車に腰かけてゐたのだ。
「ははん」
 河田は変にニヤ/\と咳ばらひしながら扉をあけて事の外へ出た。私もつづいて出た。運転手の驚愕の顔、恐怖の表情といつたらない。私達が降りると車は走りだした。

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