武蔵野に展かれた俺の窓から、脂ぎつた顔のニタニタをぬつと現す。
――愛する友よ、寒さは人間の敵だねえ。彼等はかつてナポレオンをオロシヤに破り、転じては若きエルテルの詩人を伊太利に送り、澆季《ぎょうき》の今日に於ては鈍愚利の尊公をも酒倉へ送らうとする。人間はかくの如く常に温かくあるべきぢやよ。その意味に於て尊公の心に萌し出でた本能の芽は聖なる鉢顛闍梨《パタンヂャリ》の三昧に比していささかも遜《ゆず》るところを見出しがたいのぢやよ。※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《オーム》※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《オーム》、(箆棒《べらぼう》め)といつたものぢやよ。
と言ふのだ。
俺は憤然として何事かを絶叫しやうと思ふのだが、うかつに絶叫しては頤のゼンマイから必然的に頭のゼンマイへかけて狂ひ出す怖れを感じるものだから、絶望的なニヤニヤを笑つて行者のニタニタを眺めてゐるのだ。すると俺の心臓はひどく憶病になつて次の一秒がばかに恐ろしく不気味に思はれ、沈黙に居堪《いたたま》らなくなり出すから、もうおさへ切れずにわあつ――と叫ぶと――
一つぺんに階段を跳び降りて雨戸を蹴破ると、もう武蔵野の木枯を弾になつて一条にころがつてゐるのだ。
わあ!
助けて呉れえ、冬籠りだあ!
と、かやうに声高く武蔵野を喚きながら、俺は酒倉の戸を踏み破つて――
(俺達の酒倉では二十石の酒樽から酒をのむのぢやよ)
――二十石の酒樽を抱きかかへるやうにしてグイグイ、ぐいぐいと酒の灰色を一息に(茨ぢやよ)あほるのだ。木枯がペンペン草を吹き倒すとき、俺は毎年もとの酔つ払ひに還元してしまふのだつた。
こうして俺、聖なる呑んだくれは、武蔵野の木枯が真紅に焼ける夕まぐれ足を速めて酒倉へ急ぐのだが――すると酒倉の横つちよには素つ裸の柿の木が一本だけ立つてゐるのだ(君は勿論知るまいが――)。この柿は葉が落ちても柿の実の三つ四つをブラ下げて、泌むやうな影を酒倉の白壁へ落してゐるのだが――俺は毎日このまつかな柿の実へ俺の魂を忘れて、ふいと酒倉へもぐるのだ――と、こう思ふのがせめてもの俺の口実なんだ。だから俺は安心して、あれとこれとは別物だけれど、まるで魂を注ぐやうに、酒樽にとびかかると、ぐいぐいぐいぐいと酒を魂を呑んぢまふんだあ! 概して俺はこの酒倉で最もへべれけに酔つ払ふ男の唯一人で、酒倉の階段を踏みはずすと窖《あなぐら》へ宙づるしにブラ下つたまま寝ちまふこともままあるのだ。そんな朝、目が覚めると、頭の下から足の方へ登つてゆく太陽を天麩羅だらうかと眺めるんだが……
酒は憎むべき茨ぢやよ、全く俺は毎夜ダブダブ酔つ払つて呪ひをあげるのだけれど――冒頭にお話しした聖なる禁酒の物語はペンペン草の夏ではない、頑として木枯の真つただ中に(うう、ぶるぶる)行はれたのぢやよ。それはそれは悲痛なものであつたのだが、まあきき給へ。
――愛する行者よ。と、俺は一夜鬱積した酒の呪《のろい》にたまりかねて、幾杯目かの觴を呑みほしたとたんに、憎むべき行者の楽天主義《オプチミスム》を打破しやうと論戦の火蓋を切つたのだ。
――愛する行者よ、鉢顛闍梨《パタンヂャリ》の学説は不幸にしてイマヌエル・カント氏に先立つて生れたるが故にここにたまたま不運なる誤謬を犯すに至つたものであることを、余は尊公のために歎くものぢやよ。思ふに尊公等岩窟断食の徒は人間能力の限界について厳正なる批判を下すべきことを忘却したがために、浅慮にも人間はつまり人間であることを忘れ恰も人間は何でもない如くに考へ或は亦人間は何でもある如くに考へるのぢやよ。さればこそ尊公は酒と人間との区別を失ひ、酒は尊公の肋骨であり尊公は酒の肋骨……うむうむ、であるなぞと考へるのぢや。げに恐るべき誤謬ぢやよ。かるが故に――(と二十石の酒樽より酒をなみなみと受けて呑みほし)
――かるが故に尊公は又人間能力の驚嘆すべき実際を悟らずして徒らに幻術をもてあそび、実は人間能力の限界内に於て極めて易々と実現しうべき事柄を恰も神通力によつてのみ可能であるなぞと、笑ふべき苦行をするのぢや。見よ。余の如きは理性の掟に厳として従ふが故に、ここに酒は茨となり木枯はまた頭のゼンマイをピチリといはせるのだけれども、余は亦理性と共に人間の偉大なる想像能力を信ずるが故に、尊公の幻術をもつてしては及びもつかぬ摩訶不思議を行ひ古今東西一つとして欲して能はぬものはないのぢやよ。世に想像の力ほど幻々奇怪を極め神出鬼没なるものは見当らぬのぢや。さればこそ乃公《ダイコウ》の行く手はいつも茨だが、目をつむれば茨は茨ならずしてたちどころに虹となり、虹と見ゆれど茨は本来茨だから茨には違ひないけれど亦虹なんぢやあ。しかし亦虹は茨――うう、面倒くさい話であるが(実際に於てかくの如く面倒であるのぢやよ)――だから余は断じて幸福であるのだ!
と、酒樽にもたれて酔眼を見開き、勢あまつて尚も口だけをパクパクと動かしてゐたのだが、行者はニタニタと笑ひつつ面白さうに俺のパクパクを眺めながら焦燥《アセ》らず周章てず尚も幾杯かを傾けてしばらく沈黙の後(ああ! 悲劇の前奏曲よ!)静かに鼻の頭をこすつて
――尊公は見下げ果てたる愚人ぢやよ。(とおもむろに暗涙を流した)。かつて人間が神を創造して以来ここに人間の生活に於ては詩と現実との差別を生じ、現実は常に地を這ふ人間の姿を飛躍する能はず、詩はまた常に天を走れども地上の現実とは何等の聯絡を持つことを得なかつたから、人間は徒に天と地の宙を漂ひ、せつぱつまつて不幸なる尊公らは虚無と幸福とを混同するの錯覚におちいり、ヂオゲネスは樽へ走り、アキレスは亀を追ひかけ、小春治兵衛は天の網島、荘周は蝶となり、尊公のゼンマイははづれさうになるんぢやよ。ひとり淫乱の国|天竺《てんじく》には現実を化して詩たらしめんとする聖なる輩《トモガラ》が現れて、ここにカーマスットラを生みアナアガランガをつくり常にリンガ・ヨオニに崇敬を払つて怠ることがないから法悦極るところなく法を会得し、転じて一方には聖なる苦行断食の徒を生み出して彼等には幻術の妙果を与へるに至つたのぢやよ。されば我等の幻術は現実に於て詩を行ひ山師神神を放逐し賢《サカシ》ら人を猿となし酒呑めば酒となる真実の人間を現示せんとするものであるわい。いで――
(と、行者は奇蹟的な丸顔をニタニタと笑はせながら立ちあがつたんだ)
――いで空々しく天駈ける尊公の想像力を打ちひしぎ、地を這ふ人間そのものを即坐に詩と化す幻術の妙を事実に当つてお目にかけるよ。
と、フウフウと酒気を吐きながら、しばらくは酒樽にもたれてフラフラと足下も定まらなかつたが、おもむろに重心を失ふと横にころげて鯉のやうにビクビクと動くのだ。
俺はもう行者の長談議の中途から全く退屈してゐたので、どうにと勝手になるやうになれと、酒倉の壁にもたれて天井の蜘蛛の巣を見てゐたが、酔つたせえでもあるのだらうか、ぼやけた蝋燭は数限りない陰陰を投げて狂ほしく八方へ舞ひめぐり、さらでも朦朧とした俺の視界を漠然の中へ引きづりこんでしまふのだ。俺は木枯の響がヒュウとなつて酒倉をくるくると駈けめぐるのをきいてゐたが――そのうちにみんな忘れて何もきこえなくなつてしまつた。
それからものの五分もぢつとそんな風にしてゐたのだらうか、ふと引くやうな物音に我にかへると、それは嘗て耳に馴れない笛の音で唄ふやうに鳴りひびいてくるものだから何事であらうかと目で探ると――俺は危くうわあつ! と呻えて酒樽に縋りつくところだつた。一匹のコブラが頸のところをまんまるく膨ませ、立つやうに泳ぐやうに屈伸しながら、ぼやけた蝋燭にいやらしいその影を騒がせてゐるのだ。これは音にきく熱国の蛇使ひであらうか、白い回教徒頭巾《チュルパン》を頭にまいた鋼色の男が酒樽の片影に坐を組んで太く節くれて光沢のある笛を吹いてゐる……
わあわあ、余は酔つたんだあ。断じて俺は酔つちまつたぞ。と、俺は絶望して俺の頭を横抱きにかかへながら、せめて親友瑜珈行者は何処へ行つたんだ、助けて呉れえと眺めまはすと――亦しても俺はわあつ! と今度は笑ひが爆発して今にも粉微塵と千切れ去るところだつた。何といふ笑ふべき格巧であらうか! 魁偉なる尻を天高く差しあげ、太い頸をその股にさし込むばかりにして匍匐するあの様は、あれが行者の得意なる背亀坐《ウッターナーサナ》であるのか。それともむしろあの形よりおして瑜伽経《ゆがきょう》に説く弓坐《ダヌラーサナ》、孔雀坐《マユラーサナ》の類でもあらうか。見れば股かげにその丸顔をもぐらせて相も変らずニタニタと笑はせながら、それでも流石に目を閉ぢて豆程もある脂汗をジタジタとわかせてゐるのだ。
蛇の踊りがこうして、何の変哲もなくものの五分も続いてゐたらうか。すると俺は、ひどく酔つたせえで目のまはりに白い靄がかかつたんだと、さう思つたのだ――周章てて目の周《マワリ》をこすつたのだが、模糊とした靄は一向に消えやうともせず、今度は何となくフワフワと渦を巻いて見えるから――ああ俺は遺憾なく酔つちまつたんだと匙を投げて拳骨をふりあげた、すると――だだだ、何たる事だ! ゆらめく靄はするりと縮んで忽ちに一つの塊におさまつたと思ふうちに不思議な香気が鼻にまつはつたやうな気がしたが、ばかに一面が気持よく澄み渡つたやうだと思ひついた時には、もう目の向ふに波羅門《バラモン》の銅色の娘が綺麗な裸体でねそべつてゐるのを見出してゐた――娘はひどく自由な、物なれた物腰でゆるやかに立ちあがると、すぐ自分の横にそびえたつ魁偉なる尻の塔を眺めてゐたが(べつにおかしくはないとみえて、俺のやうにゲタゲタと笑ひくづれやしないのだ)、やがて、ひどく懐かしい表情をすると、恋人を抱くやうに行者の頸に手をやつて、蛇のやうな腕をするするとまはした……
ああ! 酒は憎むべき灰色だ! 呪ふべき酒の毒よ!
と、俺は怒り心頭に発して跳ね起きると(起きあがる急速なる一瞬間に、娘の腕のふうわりとした中で行者のニタニタがなほニタニタと深く笑ふのを眺めたのだが――)、ああ! 呪ふべき酒よ! 呪ふべき幻術よ! と俺は狂気の如く行者の丸顔(そのときも股のとなりにあつた)にとびかかると娘の腕を跳ねのけて太くたくましいその頸筋をむんずと掴んでぐいぐいと絞めつけたのだ――恐らくその瞬間には娘も蛇も蛇使ひも消えて其処には居なかつたのであらうが――けれども行者は、なほも娘に頸をまかれてゐるかのやうに快くニタニタと脂の玉を浮べるのだ。
――わあつ! 余は断じて酒を止めたぞよ! 余は断乎として……わあつ!
と叫ぶと俺は行者の頸を離れ、自分の頭を発止とかかへてガンガンとぢだんだ[#「ぢだんだ」に傍点]踏んだが、あらゆる見当を見失つてわあつ! と一声うめえたまま――二十石の酒樽の周囲を木枯よりも尚速くくるくるくるくるとめぐり初めたのであつた。余は煩悶の塊ぢやよ、余の行く道は茨ぢやよ、前も後も煩悶ぢやよ、煩悶を忘れんとして煩悶――
わあつ!
と俺は跳ねあがつて(ああ何十辺酒樽の周りをまはつたか)バッタリと立ち竦んだまましばらくは外を吹く木枯の呻きに耳傾けてゐたのだが、猛然と心を決め、グワンと扉を蹴倒すと荒れ狂ふ木枯の闇へ舞ふやうに踊りこんでしまつたのだ。俺がただ一条に転げてゆく闇のうしろでは、今蹴倒した扉から酒倉へかけて津波のやうに木枯の吹き込んだ音をききながら、
――俺は断じて酒を止めたんだあ!
――もう一滴も呑まないんだあ!
――助けてくれえ!
と武蔵野を越え木枯をつんざいて叫びながら――辛うじて下宿の二階へ辿りつくと空しい机の木肌に縋りついて。
――く、苦しい! 助けてくれえ、喉がかわいた! 酒を呉れえ! 酒だ酒だ!
とかやうにもがきながら、反吐を吐きくだしてしまつたのだ。
俺の禁酒は、結局悲劇にもならずに笑ふべき幕をおろした。悶々の情に胸つぶし狂ほしく掻い口説くのは一人恋人だけであるといふことを、呪はれたる君よ、知らなければならぬのぢや。冬はあまりにも冷たすぎるものぢ
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