木枯の酒倉から
――聖なる酔つ払ひは神々の魔手に誘惑された話――
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)周章《あわ》て者
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その都度|瞠若《どうじゃく》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]
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[#5字下げ]発端[#「発端」は中見出し]
木枯の荒れ狂ふ一日、僕は今度武蔵野に居を卜さうと、ただ一人村から村を歩いてゐたのです。物覚えの悪い僕は物の二時間とたたぬうちに其の朝発足した、とある停車場への戻り道を混がらがせてしまつたのですが、根が無神経な男ですから、ままよ、いい処が見つかつたらその瞬間から其処へ住んぢまへばいいんだ、住むのは身体だけで事足りる筈なんだからとさう決心をつけて、それからはもう滅茶苦茶に歩き出したんです。ところが案外なもので(えてして僕のやることは失敗に畢《おわ》るものですから)、見はるかす武蔵野が真紅に焼ける夕暮れといふ時分に途方もなく気に入つた一つの村落を見つけ出したのです。夢ではないかと悦んで思はず快心の笑みを洩して居りますと村端れの一軒に突然物の破ける音がして、やがて荒れ狂ふ木枯にふうわりと雨戸が一枚倒れるのを見ましたが、次の瞬間には真つ黒な塊が弾丸のやうに転げ出て、僕の方へまつしぐらに駈け寄つてくるのです。近づくのをよくよく見ますと、いやに僕によく似た――背が高く、毛髪は茫茫とし、顔色は蒼白で、駈けてきた所為でもありませうが、何となく疲労の色が額に漂つてゐて、妙チキリンなピヂャマを着てゐるんです。一体こいつほんとに気狂ひかしら、と無論僕はさう思ひついたのですが、広い武蔵野の真ん中で紅紅とただ二人照し出されてみますと、この怪物がばかに親密に見えるものですから、君、君、と僕は通りすぎるこの怪物を呼びとめました。ところがこの周章《あわ》て者は僕の声などてんで耳に這入らないらしく尚も一散に弾となり水平線の向ふ側へ飛び去りさうに見えたものですから、僕も亦とつさにわあつといふと一本の線になつてこの男の跡を追ひかけるやうな次第になつたのですが――大根の四五本ぬき棄てられてある横つちよのあたりでやつとこの周章て者の腰のところへ武者振りつくと勢あまつて二人諸共深深と黒い土肌へめり込んでしまつたのです。顔の半ぺたを土にしてフウフウと息をつきながら夢からさめたもののやうにポカンとしてゐるこの周章て者に僕は亦とぎれとぎれに詫を述べ、如何なる必然と偶然の力がかかる結果を招致するに至つたものであるかといふことを順を追ふて説明いたしました。
――結局君はこの村に貸間亦は貸家が存在するであらうかといふことを僕にききたかつたんだね。
と、話してみれば物分りのいい男で、心臓の動悸がやうやくに止つたらしく、こう(顔の半ぺたを土にして)反問するのです。
――さうです、何か御心当りがありますかしら。
と、僕はもうひどくこの周章て者に好意を感じ出してゐたのですが、物のはづみで拾ひあげた大根をなで廻しながらこんな風にきいたのです。するとこの男は僕の言ふことが呑み込めないのでせうか(えて哲人は食物を食べるその理窟さへ分らないものだと言ひますから)怪訝な顔をして、
――無いこともないが、かりにあつたとして、君はそれをどうする心算《つもり》なんだ。
といふのです。
――無論僕が住むんですがね。
――う、ぶるぶる、止した方がよろしいよ。
――何故ですか?
――う、ぶるぶるぢやよ。
と彼は一きは顔色を蒼く鋭くするのです。しかし彼は見かけによらぬ親切な男で、改めて僕を自分の宿(さつき雨戸を蹴倒して出てきたところです)へ案内すると、どうしても君はこの寒い村に居を構えるつもりであるかと尋ね、頑としてさうであると答へると、「尊公も亦呪はれたる灰色ぢやよ」と目を伏せながら、次のやうな笑ふべき物語を語つてきかせたのです。木枯が窓を叩くたびに、う、ぶるぶると震へながら――
[#5字下げ]蒼白なる狂人の独白[#「蒼白なる狂人の独白」は中見出し]
俺の行く道はいつも茨だ。茨だけれど愉快なんだ。茨よりほかの物を、俺には想像ができなかつたから。
俺は禁酒を声明した。肉体的、経済的、ならびに味覚的に於てすら、酒そのものが俺にはけして愉快なる存在ではなかつたからだ。無論禁酒を声明した程だから昔は酒を呑んだんだ。あべべい、酒は茨だねえ、不快極る存在ぢやよ、と言ひながら。
酒は君、偉大なる人間の理性を痺らせるものぢやよ。酒はあぱぱいぢや。汝の明朗なる人間的活動は忽ちにして神の如く曇るぞよ。おそれよ、おそれよ、といふ注告は遺憾ながら俺の為にはペチシオ・プリンシピイの誤謬を犯してゐる。
俺の理性が頼れうるものならば――余は酒樽の冠を被り樫の大いなる觴《さかずき》を捧げ奉つて、ロンサルの如くたちどころに神に下落するぞよ。
――愛する友よ。君は人間として甚だいたらん男ぢや。酒呑めば酒と化すことを、人間はその誇りとするものぢやよ。まま、ええさ。唄ひかつ踊り、寂しげなる村々を巡礼して悩みを悦びの如く詩にあらはし、一文の喜捨にも往昔の騎士に似て丁重なる礼を返し、落日と共に塒《ねぐら》を求めて山毛欅《ぶな》の杜へ消え去るのも一つの修業方法であるな。旅は人の心を空ッポにするものぢやよ。そのくせひどく感動しやすくなるもんだから、貴公のやうな鈍愚利《どんぐり》でも時あれば泌《し》むやうに酒が恋しくなるかも知れん。ああ! 酒呑まぬ男は猿にかも似てゐると、うまいことを言ふもんだねえ。賢《サカシ》ら人は、いやだねえ。ゲヂゲヂを思はせるよ、君。
とわが友は暗澹たる顔をさらに深く曇らせてゲヂゲヂを払ふもののやうに觴を振り廻すのだ。わが友は日本にたつた一人の瑜伽行者《ヨーギン》だ。痩せさらぼうて樹下岩窟に苦行し百日千日の断食を常とするかの輩《トモガラ》です。業成れば幻術の妙を極めて自在《シジ》を得るところの、あれだ――が、俺の友達は酒樽の如く脂肪肥りの酔つ払ひだ。呑んだくれの瑜伽行者もないもんぢやよ、君。
――余は断じて酒をやめるぞよ。と俺はその場で声明した。ひたすらに理性をみがき常に煩悶を反芻して、見よ煩悶の塊と化するぞよ。右も煩悶左も煩悶、前も後も煩悶ぢやよ。目を開けば煩悶を見、物を思へば煩悶を思ひ、煩悶を忘れんとして煩悶に助けをかり、せつぱつまれば常に英雄の如くニタニタと笑ひつつ、余は理性を鉾とし城として奮然死守攻撃し、やがて冷然として余の頸をも理性もてくびくくるであらう。見よ、
――余は断じて酒を止めるぞよ。
と俺は断乎として声明したのだが――まあ待ち給へ。聖なる俺の決心を永遠ならしむるために、も一度立ち戻つて事のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]に詩的情緒の環をかけさせて呉れ給へ。
毎年のことだが、夏近くなると俺は酒倉へサヨナラをする。それといふのが、夏は君、ペンペン草を我無者羅に俺達の酒倉へはやすからなんぢやよ。見給へ。夏が来ると俺達の酒倉はペンペン草で背の半分を埋めてしまふのだ。酒倉の壁の罅《ひび》からもペンペン草が頸を出す。同じ草が傾いた屋根の上では頭をふり、庭も亦一面にペンペン草の波なんだ。
一体俺達の酒倉はこれでもれつき[#「れつき」に傍点]とした造り酒屋なんだけど、何分ここの亭主は自分の酒を自分一人であらかた呑みほしてしまふものだから、長い年月には母屋を呑み庭の立木を呑み(客ではない、無論亭主自身が呑んだんだ)、今では彼の寝室でありやがては棺桶であるところの破れほうけた酒倉がただ一つ残つてゐるばかりだ。だから君、夏がきてペンペン草が酒倉の白壁の半分を包み隠してしまふとき、俺は呆然として無から有の出た奇蹟をば信ずるに至るのだけれど――君が見かけ程詩人なら、疑ふべき筋合ではないのぢやよ。といつたわけで、ペンペン草は生え放第に庭も道も一様に塗りつぶすものだから、俺は酒倉への出入にペンペン草に捲き込まれてとんだ苦労をしてしまふのだ。足をからむとか蛇をふみつけるとかしてわあつ! と及腰《およびごし》になりかかると、鼻孔にまぎれ込む奴もペンペン草であるし懐にガサガサとなる奴も――ああ何処をどうして潜り込んだのか背中で何か騒ぐ物があるのもみんなこのペンペン草なんだ。俺はううんと呻えたまま天高く両腕をつきあげて進退ここに谷《きわ》まつたといふ印をしてしまふのだ。すると真夏の太陽がカアンといふあの変テコな沈黙でいやといふほど俺の頭を叩きのめすものだから、俺は危く目をまはさうとするのぢやよ。おお光よ、おお緑よ、おおペンペン草よ、怖るべき力よ、俺の若き生命よ。余は緑なすペンペン草の如く太陽のあるところへ一目散に駈けてゆかねばならぬ。ああ酒は憎むべき灰色ぢやよ、と俺は思ふのだ。
――酒は頑としてサヨナラぢやよ。
と、そこで俺は憤然として酒倉を脱走するのだ。「ああ太陽よ」とか「おお生命よ」とか、まあそいつたことを喚きながら、俺は何分あまりにも興奮して酒倉を走り出るものだから、つい亦ペンペン草に足をとられて大概は四ん這ひになり畢り、酒は実に灰色ぢやよ、俺は頑としてそれを好まんよなどと叫びながら這ひ出してゆくのだつた。
すると酒倉の亭主は――先刻御承知の瑜伽行者だが――ペンペン草の間から垣間見える俺の尻を見送りながら「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ニタニタと笑ふのだ、「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ね。
まことに木枯と酒と俺は因果な三角関係を持つものである――木枯は、恰も俺の活力を刺し殺すやうに酒倉のペンペン草を枯してしまふのだ。すると俺は――
ああ! 俺は冬が大嫌ひだあ!
冬は――俺の心をさむざむと白く冷くするのぢやよ。寒気は俺の脳味噌をも氷らせるのだ。俺の一切の運転はハタと休止して――俺はペンペン草と一緒に、ここに果敢《はか》なく枯れ果ててしまふのだ。顔色はいふまでもなく蒼白となり、目は鈍くかがやき、脳味噌は――脳味噌といふ代物を余はひどく怖れるよ――脳味噌は、氷りついて動かないのだ。そこで俺は様様な手段を講じてぜひとも脳味噌を動かさうと勉めるのだ。俺の目はいみじくも光り輝き、額は痩せくたびれて、頭は唸りを生じ、俺は――ほがらかに気狂ひになりさうな気がするのだ。俺の唇は酒を一滴も呑まぬのに呂律も廻らなくなつて、ワハ、オモチロイヨ、などと言ふのだ。こんな風にして、俺の身体は何かガラスのやうな脆い物質から出来てゐて、どこかしらん一寸でも動かしたが最後ピチピチと音がしてわれちまふやうな気になる。舌を出してさへゼンマイがくづれさうな気がするから(ああ、舌が出してみたいねえ)笑ひたくてたまらないのだが――俺は断じて笑はんよ。武蔵野に展かれた宿の窓から、俺は時々頸をつき延して、怖るべき冬の情勢を探るのだ。すると、見渡す視野がばかに広茫と果もなくひろがつてゆくのに、その都度|瞠若《どうじゃく》として度胆を失つてしまふのだ。冬の広さを見てゐると、俺は俺の存在が消えてなくなるやうに感じるものだから……
……こうして、木枯のうねり[#「うねり」に傍点]が亦一とうねり[#「うねり」に傍点]強くなると、俺はつい堪りかねて、ふつとあの酒倉を、思ひ出してしまふのだ。憎むべき酒よ、呪ふべき酒樽よ、怖るべき冬よ、う、ぶるぶるよ。俺の恋心は果もなくつのつて、俺の魂はいつの間にやら木枯の武蔵野を一ととびに、酒倉の戸の隙間から悪魔風な法式でふいとあの酒倉へもぐり込んでしまふのだ。すると酒倉の亭主は――
(ああ、彼の不愉快な幻術は、如何に俺を悩ますことか!)
――おもむろに觴をひねくりながら、まぎれ込んだ俺の魂をてもなく見破つてしまふのだ。彼は脂ぎつた太くまん丸い顔をニタニタと笑はせる、そしてグイと一杯呑みほすと、いやに取り澄まして、やをら得意なる背亀坐《ウッターナーサナ》を組み、おもむろに調息するのだ。見給へ――彼は分身の術を用ひて、さむざむと
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