やよ。
 だから(聖なる決心よ!)俺はうなだれて武蔵野の夕焼を――ういうい、酒倉へ、酒倉へ行つたんだ! 断乎として禁酒を声明したあの一夜から、数へてみて丁度三日目の夕暮れだつた。俺の目は落ち窪み、額はげつそりと痩せ衰へて、喉はブルブルと震へてゐたが。ややともすれば俺は木枯に吹き倒されて、その場でそのまま髑髏にもなりさうに思ひながら、やうやくに酒倉へ辿りついてその白壁をポクポクと叩いたんだ。
 俺の悄然たるその時の姿は、「帰れる子」の抱腹すべき戯画であり、換言すれば下手糞な、鼻もちならぬ交響楽を彷彿させるそれら「さ迷へる魂」の一つであつたと、行者は後日批評してゐる。とにかく俺はやうやくにして二十石の酒樽に取り縋ると物も言ひ得ず灰色の液体を幾度も幾度も口へ運んだ。ああ幾度も幾度も……そんな風にして俺の神経の細い線が、一本づつ浮き出てくるのを感ずる程呑みほしたのだが――酒は本来俺にとつて何等味覚上の快感をもたらさないのだ。むしろ概して苦痛を与へる場合が多いのだし、それに酒はむしろ俺を冷静に返し、とぎ澄まされた自分の神経を一本づつハッキリと意識させるのだけれど――それでゐて漠然と俺の外皮をなで廻る温覚は俺をへべれけに酔つ払はしてゐるのだつた。だから俺は酒に酔ふのは自分ではなく何か自分をとりまく空気みたいなものが酔つちまふんだと思つてゐるのだが――そんなことを思ひ当てるときは、きまつて足腰もたたない程酔ひしれてゐるのだ。
 俺はぐいぐいと、どれ程の酒を呑みほしたものであらうか。益々冴える神経の線が例の模糊とした靄につつまれてゆくのを感じながらふと我にかへると、思はず俺はわあつ! と――いや、もはや俺は物に驚く力をも忘れた木念人であつたから、朦朧たる目を見開いて、見開いても暫くはさだかに見定まらないので、わしあ驚かんよ。勝手にしろよ。とフラフラと動いたのだ。
 俺達の酒倉はいつの間にか緑したたる熱国の杜に変つてゐた。見涯《みはて》もつかぬ広い線は、あれはみんな魂の生《ナ》るやうな、葉の厚ぼつたい、あんな樹々だ。菩提樹、沙羅樹、椰子、アンモラ樹。緑をわたる風のサヤサヤにガサツな音を雑《まじ》へる奴は、あれは木の葉ではない、地べたに密生する丈長い草――ペンペン草ではありませんよだ――これは梵語にクサと呼ぶ草で印度に繁る雑草だつた。クサの繁みに一きは白くそびえ立つ円塔は、あれは聖なる卒塔婆であらうかと目をすえると――ああ、これは背亀坐《ウッターナーサナ》を組む行者のグロテスクな尻であつたから、俺は思はず敬虔なる心をさへ起すところであつたのだ。
 もしや婆羅門の「いらつめ」「いらつこ」が古い日本の※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌《かがい》さながらに木々を縫ふてゐはしまいかと奥深く杜をうかがつたのだけれど、渡るものは風ばかりで、それでも気のせいか、何か遠くさんざめく物声にもききとれた。見るほどに、見渡す限り樹々を渡る、風の冴えた沈黙ばかりだ。
 ――わしは幻術を好まぬよ。(と俺はフラフラと立ち上つた)。木枯の如く酒の如く呪ふべきものは幻術ぢやよ。線なす菩提樹よ、椰子よ、沙羅樹よ、アンモラ樹よ、これらも亦甚しくわし[#「わし」に傍点]の気に入らんよ。俺の行く道は常に愉快なる茨ぢやよ。(ああ、俺は何と欺くべき小人であらうか!)、ああ愛すべき茨よ!
 と、尚も俺はフラフラと、ひどく陽気に歩き出し、クサを踏みわけて幾度も転げながらあのパゴダ――行者の御尻です――に辿りつくと、呪はれたる尻よ、とこれを平手でピシャピシャと叩いたのだ。すると行者は尚も幻術に無念無想で、股にもぐした丸顔には例の脂汗とニタニタが命懸けにフウフウと調息してゐるのだつた。
 ――余は断じて尊公の尻を好まんよ。
 と、俺も詮方なくニヤニヤと空しい尻に笑ひかけながら尚ほ暫く叩いてゐたが、やがて退屈して酒樽へ戻らうと足のフラフラを踏みしめて叢《くさむら》の中へわけ入つたのだが――(ああ、これも呪ふべき行者の幻術であらうか)叢に秘められた階段に足踏みはずして、酒倉の窖《あなぐら》へ真つ逆様に転り込むと、何のたわいもなく、俺は気絶してしまつたのだ――。

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  附記
 この小説は筋もなく人物も所も模糊として、ただ永遠に続くべきものの一節であります。僕の身体が悲鳴をあげて酒樽にしがみつくやうに、僕の手が悲鳴をあげて原稿紙を鷲づかみとする折に、僕の生涯のところどころに於てこの小説は続けらるべきものと御承知下さい。僕は悲鳴をあげたくはないのです。しかし精根ここにつきて余儀なければしやあしやあとして悲鳴を唄ふ曲芸も演じます。(作者白)
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底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「言葉 第二号」「言葉」発行所
   1931(昭和6)年1月1日発行
初出:「言葉 第二号」「言葉」発行所
   1931(昭和6)年1月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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