みはずすと窖《あなぐら》へ宙づるしにブラ下つたまま寝ちまふこともままあるのだ。そんな朝、目が覚めると、頭の下から足の方へ登つてゆく太陽を天麩羅だらうかと眺めるんだが……
 酒は憎むべき茨ぢやよ、全く俺は毎夜ダブダブ酔つ払つて呪ひをあげるのだけれど――冒頭にお話しした聖なる禁酒の物語はペンペン草の夏ではない、頑として木枯の真つただ中に(うう、ぶるぶる)行はれたのぢやよ。それはそれは悲痛なものであつたのだが、まあきき給へ。

 ――愛する行者よ。と、俺は一夜鬱積した酒の呪《のろい》にたまりかねて、幾杯目かの觴を呑みほしたとたんに、憎むべき行者の楽天主義《オプチミスム》を打破しやうと論戦の火蓋を切つたのだ。
 ――愛する行者よ、鉢顛闍梨《パタンヂャリ》の学説は不幸にしてイマヌエル・カント氏に先立つて生れたるが故にここにたまたま不運なる誤謬を犯すに至つたものであることを、余は尊公のために歎くものぢやよ。思ふに尊公等岩窟断食の徒は人間能力の限界について厳正なる批判を下すべきことを忘却したがために、浅慮にも人間はつまり人間であることを忘れ恰も人間は何でもない如くに考へ或は亦人間は何でもある如くに考へるのぢやよ。さればこそ尊公は酒と人間との区別を失ひ、酒は尊公の肋骨であり尊公は酒の肋骨……うむうむ、であるなぞと考へるのぢや。げに恐るべき誤謬ぢやよ。かるが故に――(と二十石の酒樽より酒をなみなみと受けて呑みほし)
 ――かるが故に尊公は又人間能力の驚嘆すべき実際を悟らずして徒らに幻術をもてあそび、実は人間能力の限界内に於て極めて易々と実現しうべき事柄を恰も神通力によつてのみ可能であるなぞと、笑ふべき苦行をするのぢや。見よ。余の如きは理性の掟に厳として従ふが故に、ここに酒は茨となり木枯はまた頭のゼンマイをピチリといはせるのだけれども、余は亦理性と共に人間の偉大なる想像能力を信ずるが故に、尊公の幻術をもつてしては及びもつかぬ摩訶不思議を行ひ古今東西一つとして欲して能はぬものはないのぢやよ。世に想像の力ほど幻々奇怪を極め神出鬼没なるものは見当らぬのぢや。さればこそ乃公《ダイコウ》の行く手はいつも茨だが、目をつむれば茨は茨ならずしてたちどころに虹となり、虹と見ゆれど茨は本来茨だから茨には違ひないけれど亦虹なんぢやあ。しかし亦虹は茨――うう、面倒くさい話であるが(実際に於てかくの如く面倒であるのぢやよ)――だから余は断じて幸福であるのだ!
 と、酒樽にもたれて酔眼を見開き、勢あまつて尚も口だけをパクパクと動かしてゐたのだが、行者はニタニタと笑ひつつ面白さうに俺のパクパクを眺めながら焦燥《アセ》らず周章てず尚も幾杯かを傾けてしばらく沈黙の後(ああ! 悲劇の前奏曲よ!)静かに鼻の頭をこすつて
 ――尊公は見下げ果てたる愚人ぢやよ。(とおもむろに暗涙を流した)。かつて人間が神を創造して以来ここに人間の生活に於ては詩と現実との差別を生じ、現実は常に地を這ふ人間の姿を飛躍する能はず、詩はまた常に天を走れども地上の現実とは何等の聯絡を持つことを得なかつたから、人間は徒に天と地の宙を漂ひ、せつぱつまつて不幸なる尊公らは虚無と幸福とを混同するの錯覚におちいり、ヂオゲネスは樽へ走り、アキレスは亀を追ひかけ、小春治兵衛は天の網島、荘周は蝶となり、尊公のゼンマイははづれさうになるんぢやよ。ひとり淫乱の国|天竺《てんじく》には現実を化して詩たらしめんとする聖なる輩《トモガラ》が現れて、ここにカーマスットラを生みアナアガランガをつくり常にリンガ・ヨオニに崇敬を払つて怠ることがないから法悦極るところなく法を会得し、転じて一方には聖なる苦行断食の徒を生み出して彼等には幻術の妙果を与へるに至つたのぢやよ。されば我等の幻術は現実に於て詩を行ひ山師神神を放逐し賢《サカシ》ら人を猿となし酒呑めば酒となる真実の人間を現示せんとするものであるわい。いで――
(と、行者は奇蹟的な丸顔をニタニタと笑はせながら立ちあがつたんだ)
 ――いで空々しく天駈ける尊公の想像力を打ちひしぎ、地を這ふ人間そのものを即坐に詩と化す幻術の妙を事実に当つてお目にかけるよ。
 と、フウフウと酒気を吐きながら、しばらくは酒樽にもたれてフラフラと足下も定まらなかつたが、おもむろに重心を失ふと横にころげて鯉のやうにビクビクと動くのだ。
 俺はもう行者の長談議の中途から全く退屈してゐたので、どうにと勝手になるやうになれと、酒倉の壁にもたれて天井の蜘蛛の巣を見てゐたが、酔つたせえでもあるのだらうか、ぼやけた蝋燭は数限りない陰陰を投げて狂ほしく八方へ舞ひめぐり、さらでも朦朧とした俺の視界を漠然の中へ引きづりこんでしまふのだ。俺は木枯の響がヒュウとなつて酒倉をくるくると駈けめぐるのをきいてゐたが――そのうちにみんな忘れて何もきこえな
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