くなつてしまつた。
それからものの五分もぢつとそんな風にしてゐたのだらうか、ふと引くやうな物音に我にかへると、それは嘗て耳に馴れない笛の音で唄ふやうに鳴りひびいてくるものだから何事であらうかと目で探ると――俺は危くうわあつ! と呻えて酒樽に縋りつくところだつた。一匹のコブラが頸のところをまんまるく膨ませ、立つやうに泳ぐやうに屈伸しながら、ぼやけた蝋燭にいやらしいその影を騒がせてゐるのだ。これは音にきく熱国の蛇使ひであらうか、白い回教徒頭巾《チュルパン》を頭にまいた鋼色の男が酒樽の片影に坐を組んで太く節くれて光沢のある笛を吹いてゐる……
わあわあ、余は酔つたんだあ。断じて俺は酔つちまつたぞ。と、俺は絶望して俺の頭を横抱きにかかへながら、せめて親友瑜珈行者は何処へ行つたんだ、助けて呉れえと眺めまはすと――亦しても俺はわあつ! と今度は笑ひが爆発して今にも粉微塵と千切れ去るところだつた。何といふ笑ふべき格巧であらうか! 魁偉なる尻を天高く差しあげ、太い頸をその股にさし込むばかりにして匍匐するあの様は、あれが行者の得意なる背亀坐《ウッターナーサナ》であるのか。それともむしろあの形よりおして瑜伽経《ゆがきょう》に説く弓坐《ダヌラーサナ》、孔雀坐《マユラーサナ》の類でもあらうか。見れば股かげにその丸顔をもぐらせて相も変らずニタニタと笑はせながら、それでも流石に目を閉ぢて豆程もある脂汗をジタジタとわかせてゐるのだ。
蛇の踊りがこうして、何の変哲もなくものの五分も続いてゐたらうか。すると俺は、ひどく酔つたせえで目のまはりに白い靄がかかつたんだと、さう思つたのだ――周章てて目の周《マワリ》をこすつたのだが、模糊とした靄は一向に消えやうともせず、今度は何となくフワフワと渦を巻いて見えるから――ああ俺は遺憾なく酔つちまつたんだと匙を投げて拳骨をふりあげた、すると――だだだ、何たる事だ! ゆらめく靄はするりと縮んで忽ちに一つの塊におさまつたと思ふうちに不思議な香気が鼻にまつはつたやうな気がしたが、ばかに一面が気持よく澄み渡つたやうだと思ひついた時には、もう目の向ふに波羅門《バラモン》の銅色の娘が綺麗な裸体でねそべつてゐるのを見出してゐた――娘はひどく自由な、物なれた物腰でゆるやかに立ちあがると、すぐ自分の横にそびえたつ魁偉なる尻の塔を眺めてゐたが(べつにおかしくはないとみえて、俺のやうにゲタゲタと笑ひくづれやしないのだ)、やがて、ひどく懐かしい表情をすると、恋人を抱くやうに行者の頸に手をやつて、蛇のやうな腕をするするとまはした……
ああ! 酒は憎むべき灰色だ! 呪ふべき酒の毒よ!
と、俺は怒り心頭に発して跳ね起きると(起きあがる急速なる一瞬間に、娘の腕のふうわりとした中で行者のニタニタがなほニタニタと深く笑ふのを眺めたのだが――)、ああ! 呪ふべき酒よ! 呪ふべき幻術よ! と俺は狂気の如く行者の丸顔(そのときも股のとなりにあつた)にとびかかると娘の腕を跳ねのけて太くたくましいその頸筋をむんずと掴んでぐいぐいと絞めつけたのだ――恐らくその瞬間には娘も蛇も蛇使ひも消えて其処には居なかつたのであらうが――けれども行者は、なほも娘に頸をまかれてゐるかのやうに快くニタニタと脂の玉を浮べるのだ。
――わあつ! 余は断じて酒を止めたぞよ! 余は断乎として……わあつ!
と叫ぶと俺は行者の頸を離れ、自分の頭を発止とかかへてガンガンとぢだんだ[#「ぢだんだ」に傍点]踏んだが、あらゆる見当を見失つてわあつ! と一声うめえたまま――二十石の酒樽の周囲を木枯よりも尚速くくるくるくるくるとめぐり初めたのであつた。余は煩悶の塊ぢやよ、余の行く道は茨ぢやよ、前も後も煩悶ぢやよ、煩悶を忘れんとして煩悶――
わあつ!
と俺は跳ねあがつて(ああ何十辺酒樽の周りをまはつたか)バッタリと立ち竦んだまましばらくは外を吹く木枯の呻きに耳傾けてゐたのだが、猛然と心を決め、グワンと扉を蹴倒すと荒れ狂ふ木枯の闇へ舞ふやうに踊りこんでしまつたのだ。俺がただ一条に転げてゆく闇のうしろでは、今蹴倒した扉から酒倉へかけて津波のやうに木枯の吹き込んだ音をききながら、
――俺は断じて酒を止めたんだあ!
――もう一滴も呑まないんだあ!
――助けてくれえ!
と武蔵野を越え木枯をつんざいて叫びながら――辛うじて下宿の二階へ辿りつくと空しい机の木肌に縋りついて。
――く、苦しい! 助けてくれえ、喉がかわいた! 酒を呉れえ! 酒だ酒だ!
とかやうにもがきながら、反吐を吐きくだしてしまつたのだ。
俺の禁酒は、結局悲劇にもならずに笑ふべき幕をおろした。悶々の情に胸つぶし狂ほしく掻い口説くのは一人恋人だけであるといふことを、呪はれたる君よ、知らなければならぬのぢや。冬はあまりにも冷たすぎるものぢ
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