跫音あらく戻って行った。
 せっかくの世捨人も、これでは世を捨てて暮せないから、額をあつめて、
「どうしたらいいでしょうね」
「仕方がない。アイツがああ云った上は、明早朝やってきて尻の穴まで改めるに相違ないから、垢のあるのが羞しいと思ったら一風呂あびてくるがよかろう」
「冗談ではすまないわよ」
 世捨人たちはぜひなく明早朝を期していたが、夕方になっても、大工もトビも現れないし、周信も姿を見せない。翌日も、その翌日も、十日すぎ、一月すぎても尻の穴を改めにやってこない。人の骨までシャブル悪党にしては珍しいことだと思いつつ、日ごと怖しい訪れを待つ気持も次第に薄れて二月すぎた。
 周信が現れないも道理、彼は失踪して行方不明であった。二ヶ月とは余りのことだから、父の男爵から捜査ねがいがでる。相手が男爵家だから疎略にもできず、一人の巡査が命令をうけて、彼と交渉のあった友人縁者片ッぱしから廻る役を仰せつかい、やがて世捨人夫婦のところへも訪問の順がまわってきた。なるほど行方不明なら現れないわけだ。しかし、あの怖しい鬼のような男がまさか人に殺される筈はあるまいから、人に顔を見せられないような悪事にとりかかり中かも知れない。しかしウカツに鬼の悪口を言いたてると後日のタタリが怖しいから、当りさわりのないことだけ云っておいた。
「小沼周信という人に、たとえば不良仲間の仇敵というような相手はおりませんかな」
「私たちはあの人のその方面の生活には無関係ですが」
「なるほど。つまり、御当家は小沼氏の妹のお聟さん。離婚はなさッたが、以前はそのお聟さんでしたな。まア昨年まで小沼家と最も親しい御当家ですから、何かお心当りはありませんか。たとえば、恋人というような婦人関係……」
 久五郎は妹のことを思いだして、むろんこれは言うべき筋ではないときめたが、思えば無頼漢の周信の失踪すらも巡査が探しまわるぐらいなら、、妹の失踪を誰かが探してもフシギはない。
「どうも、恋人の心当りなんぞは、親類ヅキアイというウワッツラの交際だけでは皆目知れるものではありません。これは小沼周信氏に関係あることではありませんが、実は当家でも妹が失踪して行方が分らなくて困っております」
 こう打ち明けたことから、ここに改めて小花の失踪も問題となり、こうなると誰しも一応周信と小花を結びつけた考えもしてみたいのが当然で、二人の結び目を辿ってみると意外なことが分ってきた。
 それが分ったのは政子の口からで、ヘエ、あの女の子も失踪中ですか、と政子は意外な面持であれかれと考えたすえ、
「そうねえ。兄と小花さんは一時関係のあったこともあるけど、恋人というほどではないわね。チヂミ屋が没落しなければあるいは結婚したかも知れないけど。それは私の結婚と同じように処世的、形式的なものね。華族と平民の結婚ですもの、ですから、この二人が駈け落ちするなんてことはバカらしい考えですし、他の何かの理由で兄があの人を誘いだして失踪する場合も考えられませんね。二人の行方不明は無関係よ。小花さんは家が没落して暮し向きが不自由だから、大方インバイにでもなったんでしょう」
 こういう話だ。政子は本当のところをズケズケ云ってるのだが、警察の方では男女関係アリとくれば、さてこそと二人を堅く結びつけて考えはじめるのも理の当然。そこで二人を結びつけ、小沼家とチヂミ屋を結びつけて洗って行くと、両家の関係、チヂミ屋の悲運や、小沼男爵一族の悪魔的な素行の数々も分ってきた。そこまで分ったが、それと失踪と結びつくものが見当らない。
 政子は上級の警官の密々の訪問をうけて、兄の私行について突ッこんだ質問をうけた。その質問をきくと、兄の悪行の九割までチャンと調査ずみと判定されたから、もうこの上は何を隠すにも及ばないと結論し、この失踪に関係アリと信ずべき最大の秘密をきりだした。
「失踪の手ヅルがあるかも知れない心当りは一ツしかないのですが、そこへ私をつれて行って下さい。しかし、約束して下さい。あなた方は自分勝手に調べてはいけませんよ。私とそこのウチのある人とを秘密に会見させていただきたいのです。横から口をだしさえしなければ、皆さんが立会ってもかまいません」
「事情が分ればそれも結構ですが、それはなんというウチですか」
「羽黒公爵家。私の会いたいお方は、公爵家の御曹子英高氏夫人元子さま。もとは浅馬伯爵家の令嬢で、女学校では私の上級生、私を妹のように可愛がって下さった姫君でした」
 大変な名が現れてきた。羽黒公爵家は日本有数の大名門。うかつに警官の近づける家ではない。けれども政子の申出であるから、上司に報告し、慎重に協議の上、しかるべき私服を一人政子のお供につけて、両婦人の会見に立会わせることにした。
 羽黒元子夫人への政子からの面会を申しこむ。そのとき、ひょッと
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