フーテン病みだという定説を考えれば、意気ごみはとるに足らない。自分の役目が必要なのは、こんな怪人物がいるせいだ。
「十かぞえるまでに帰って下さい。それが私の役目です。あなたの騒ぐのが旦那様の御病気に何より悪いのです。女中と侮ってはいけません。役目ですからイノチガケですよ」
若い娘だから、相手の気勢に輪をかけて応じた。それをジッと見て、とてもダメだとオトメは観念したらしい。
「ちょッとだけおイノリします。死神をおとすおイノリをね。ほんとに、仕様がない」
目をとじて合掌して、ナム、クシャクシャクシャと唱えるうちに、合掌の手が延びたり輪をえがいたり縮んだりニュッと横をさしたり、それにつれて、ナム、クシャが急に大きくなッたのでナミ子がハッとしたときに、ピタリとやんだ。瞑目して、静かに合掌、最敬礼。祷《いの》り終ると、サヨナラも云わずに、さッさと戻ってしまった。
そう長くは待たなかった。二人は陳列室から出てきた。八時三四十分であったろう。大伍はドアのカギをかけ終えて、
「伊助さんはここで待っていなさい。では一ッ走り行ってくるから。一時間あまりかかると思うが、伊助さんがお待ちの間は、ナミはさがっていなさい。お茶をあげるがよい」
こう云いのこして、大伍は急いで階段を降りた。ナミ子も云われた通り、伊助を残して下へ降りた。一度だけ茶菓を運んだ。伊助はイスの中に深くめりこんで目をとじていた。
★
大伍が戻ったのを認めたから、ナミ子はその後について二階へ行った。大伍は伊助をみちびいて再び陳列室へ消えた。十五分すぎた。ナミ子は柱時計を見ていたのだ。やがて二人はそろって病室から退出した。ヤレヤレ、これで用がすんだと、大伍が出てきてドアを閉じたと思うと病室のオルゴールが鳴った。「来い」という合図のオルゴールだ。大伍はとって返したが、一分もかからぬうちに戻ってきた。
「さて、用がすんだ。ナミはお連れした道を通って、伊助さんをお送りしてあげるがよい。庭木戸から出て塀に沿うて門まで、アベコベに一通りやりなさい。来るが如くに去る。去るところを知らずかね。伊助さん。ゴキゲンよう」
伊助は無言で頭を一つペコンと下げただけだ。重い荷を背負って歩きだした。まったく来た時も去る時も、伊助は同じであった。重い顔、無言、そしてテクテク歩いてる。
「織物を買っていただいたんですか」
思いついたことを訊いてみると、
「そうだ」
と答えただけだった。彼の方から一度こう訊いた。
「旦那の病気は何だね。ウミの匂いがプンプンする」
「オヘソのあたりや腰や股に銅貨ほどもある孔がいくつもあいて、絶え間なしにウミがにじみでているんですッて。ウミの匂いが強くなると香水をまくんだけど、今日は香水をまいてないのね」
会話はそれだけで全部であった。塀に沿うて半周して門の前で別れた。伊助はまた頭をペコンと下げただけで振向きもしなかった。
ナミ子が二階へ戻ると、控えの間から立ち去る大伍とすれちがった。
「旦那様はお疲れだ。これからようやくお寝《やす》みだから、誰も近づけてはいけないよ。三四時間はオレに用がなかろう。オレも早起きしたから、ねむたくなった。オルゴールがなるまでお部屋に入らぬがよい」
言いのこして彼は去った。まったく旦那はお疲れだろうとナミ子は思った。七時からの三四時間は熟睡のオキマリだが、それを起きていたのだから、当分はお目ざめがあるまい。時計を見ると、十時ちょッとすぎたところ。ふだんなら大伍の御出勤時間。本日はアベコベだった。
当分お目ざめがあるまいと確信のせいか、本を読んでるうちについウトウトしかけたり、ふと気がついて本の続きを読んだりした。ウトウトしたと云っても、二三分間のことだ。安心はしていても、ナミ子は役目を忘れなかった。その心がけを見こまれて全作が特に係りに選んだのだ。ナミ子はその責任も感じていた。だからウトウトしても物の気配を感じる程度に、浅く、また短かかった。
思いがけなくオルゴールがなった。ちょうど時計が十一時をうってるところだった。一時間しかたたないのに、もうお目ざめかとナミはおどろいて立ち上った。習慣はこういうものだ。七時にねて十一時に目をさます人は十時にねても十一時に目がさめる。ナミ子はドアへ走った。
ドアにつづく壁際に小卓があって、成子のカギはいつもその上に置かれていた。勤務時間が終ると、成子は自分のカギをそこへ置き残して去る。ナミ子はカギを持たないからだ。
カギは二ツあった。一ツは大伍が持っていた。大伍はカギを肌身離さなかった。
小卓の上を見たが、ある筈のカギがない。ナミ子は卓の下を探した。それから、部屋中を探しまわった。オルゴールが同じ歌を六七回もくりかえして鳴りやんだのに、カギが見当らない。
ナミ子の胸は
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