である。そのときは、ゆくゆくはノレンをわけてやる、という話であったが、父は茶屋酒に浸り、店は久雄とその子飼いの若い者たちが切り廻しているから、川根は無用の存在で、ノレンをわけてもらえる見込みは全くなかった。もう四十に手のとどく川根は、店の近所の小さな借家で妻子五名と暮していたが、前途を思うと胸がつかえるばかりで、家へ戻っても殆ど妻子と口もきかなかった。
 それは春がめぐりぎて桜の花がほころびそめた明るい朝のことであった。由利子はオイナリ様へ参拝した。
 いつもは閉じられているオイナリ様の扉がひらいていた。
「私のほかに誰か来た人があるのかしら。このウチにはイタズラする子供もいないのに」
 彼女はそう思いながら扉を閉じようとした。と、内部に、白い物があった。
「オヤ。なんでしょう?」
 彼女も昔、中を改めたことがあった。そこには御神体もなく、何物も一切なかった筈である。
 中の物をとりだした。字が書いてある。
「蛭川真弓 享年四十八歳」
 位牌ではないか。蛭川真弓とは父の名だ。享年四十八。父の現在の年齢だった。彼女は一本の棒となって息をのんだ。
 誰かのイタズラだろうか? それとも、父が
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