もある、誰の目にも行方を知ることのできない筈の神の矢が」
「なるほど」
花廼屋《はなのや》がうなった。すると新十郎は矢をとりあげて、
「落ちている矢は誰でも拾うことができるが、蛭川真弓を刺し殺した矢は、風雨にさらされた古物ではありませんでしたね。仕事場の箱の中から盗まれた一本ですよ。しかし、入口の戸も窓の戸もない土間に置かれた矢の箱から一本の矢を盗むのは、谷底へ降りて一本の矢を拾うよりもカンタンで面倒がないでしょう。誰でも盗むことができる」
一同は谷から這いあがって、再び住宅の方へ戻ってきた。
「加治景村が居るそうですが、会ってみましょう」
訊いてみると、彼の小屋は分った。すでに狂人かと思いのほか、案外にも物静かな落ちついた人物だった。さすがに今に残る品格があった。まだ五十前の筈だが、よほど年よりも老けて見えた。
「妻は子をつれて実家へ去りましたが、そのために私は世をすててここに住み、心の安静を得たようです。私の毎日は平穏で充ち足りています。昔の私にはなかったことです」
「なんによって生計を立てておられるのですか」
「お札やお守りを作っているのです。遠方から来る人が引き換えに食べ物を置いて行きます。よその小屋では金メッキのお守りや、金メッキのお面や福の神や金山の神や、いろいろ造っております」
なるほどこの小屋には木版の手刷り道具や出来あがったお札やお守りがあった。
「このお札やお守りはここへ来た人でなければ手に入らぬものでしょうね」
「来た人から貰いうける場合のほかは手に入らぬでしょう」
「参詣人は太駄の山里では年に四五十人見かける程度だと申しましたが、その小数の参詣人であなた方の生計が立つのですか」
「峯から峯を伝ってくる人、そして、里の人には姿を見せない参詣人が多いのですよ。我々に多分に喜捨してくれるのは、むしろ概ねこの人々です。日中はあまり姿を見せません。暗くなるころ到着して、明け方には立ち去ってしまうのです」
「天狗のような神主さんはいつもここに居るでしょうか。時には旅にでるでしょうか」
「日中は仕事場で必ず神の矢を造っております。神の矢を造る期間は仕事場に姿のない日はありませんね」
「いまはずッと矢を造る期間ですか」
「左様です。年の暮から翌年の十月までは神の矢をつくる期間です。その期間の日中には必ず仕事場に姿を見ることができます」
「夜間は?」
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