ろには全然手をつけずに、ね」
 彼も軽く呟いた。

          ★

 一同は夜分になるのを待って再びアンマ宿へ行ったが、家族たちはまだ戻ってこない。ちょうど弁内が仕事にでようとするところだった。
「大そう精がでるね」
「ヘッヘ。腕が物を云いまさア。お名指しのお座敷でござい、とくらア」
「石田屋かい」
「アレ。旦那も大そうカンがいいね。もっとも、ほかにお名ざしの口てえのはないからね。人殺しがあったてえから、話をききたい人情もあらア。物見高いものさ。昨日今日はウチの前が人ダカリだってネ。あの旦那は火事の晩、ちょうど私があの人の肩をもんでる最中だったが、火事はウチの近所だてえと、メクラの私の代りに火事見舞いに行ってくれたよ。これも大そうなヤジウマさ」
「手伝いに来てくれたのかえ」
「まさか、それほどでもないでしょう」
 すると、稲吉が頓狂な声をあげた。
「そう云えば、その人は、たしかに、来たぜ。なア。角平あにい。石田屋の者だが、メクラばかりで手が足りなけりゃア、手伝ってやるが、どうだ、と云って、表の戸をあけて声をかけた人があったよ。そのとき、下火になった、下火になった、てえ人々の叫
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