んは室内から出られなかった、そして死んだということです。そして六十人のあなた方よりも八百人の多くの目が正しいにきまっています。つまり、喜兵衛さんは出られなくて死にました。しかし六十人の皆さんだけが、事実に楯ついて、喜兵衛さんは生きていると信じたって、差支えはないでしょう。要するに、それだけのことですよ。さて、最後に」
 と新十郎は声を改め、
「その室内には前から一ツの屍体と一人の人間が実在していました。それにも拘らず、皆さんには全く見えなかった。それは、なぜでしょうか? 私が説明する代りに、本人にやって見せてもらいましょう。さア、どうぞ。名なしの誰かさん」
 こうよびかけられて、無名氏はふりむいた。そして魔人の如くにシッカリと歩いた。そのふるさとへ戻るように。
 彼は一枚ずつ扉を押しあけた。たったそれだけのことである。内部の全てが見えた。云うまでもなく中央の棺桶も。しかしもはや人の姿は見えなかった。
「ごらんの通り」
 と新十郎は指して、
「彼の人は隠れるために飛び上ることも走ることも一切の特殊な動作が必要ではなかったのです。中へギイーッと扉を押しあけてしまえばよろしいのです。すでに室内の空間には彼の人の姿は全く実在いたしません。ただ、そのとき室内はちょッとだけ小さくなっていました。つまり押し開けられた扉を壁の代りに、左右の隅に独立してしまった二ツの三角形の分量だけ。そして二ツの小さな三角形はもはや棺桶を安置した部屋の一部ではなかったのです。すくなくともこのダビ所の場合に於てはそうでした。扉を左右に押しあければ誰しも部屋の全部が開放されたと思います。そして、押し開けられた扉によって区切られた左右二隅の小さな三角形の中の屍体と人間は、すでに隠れたのではなかった。つまりそこはすでにその部屋の一部ではなくなっていたのです。だから、すでにその部屋に存在した屍体も人もなく、隠れている屍体も人もなかったのです。あッけないほどカンタンで、そのために完全でした」
 火消人足の中に大きな息をもらす者が二三あった。それにつれてヤマ甚も大息をホッともらして、
「フーム。そうでしたかい。実に、どうも、ありがとうございました。私を男と見こんでこの秘密をあかして下さった以上、ただもう山キが成仏するように、冥福を祈ることだけしか考えますまい。お前たちも、ただもう山キの冥福を祈ることに精を入れて余
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