ると、バカバカしいほど単純な事実であった。
克子がゆうべどうしても思いだせなかったことと云うのは、彼女が一夜つきそっていた兄の枕頭をはなれて、別室に待つ人々に、異状なく過ぎた一夜の様子と、むしろ兄は安静を得て快方に向いつつありと判断しうる吉報などを報告にでかけた時のことである。
その部屋にシノブの姿はなかったが、キミ子とカヨ子はいた、その二人を見た瞬間に克子はシノブの分身を見たと直覚した。何かの事実によってその直覚が起ったことを記憶していたが、いかなる事実によってであるか、それが昨夜はどうしても思いだすことができなかったのである。
思いだしてみればバカバカしいことである。すぐその隣りに当ることまでは思いだしたり、こねまわしていたのであった。
キミ子とカヨ子をシノブの分身と直覚したのは、二人ともシノブ夫人御愛用の高価無類のロッテナム夫人の香水「黒衣の母の涙」を身につけていたからだ。
その何時間か前に、キミ子一人の姿を認めた時にも、この香水の香りに気づいて、甚しく意外な感にうたれていたのだ。この時の意外感は鮮明で、昨夜の克子はこの意外感のテンマツの方は思いだして良人に語っていたの
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