女貴婦人が争って買いたがったものだ。なにがし公爵夫人が身につけている。なにがし男爵夫人も買いもとめた、と一ツ売れるたびに噂がとんで、世を賑わしたものであった。その流行は十五日か二十日あまり。婚礼がその流行期に当っていたから、克子もシノブにすすめられて、ムリにこの香水を嫁入道具の中へ忍ばせられた程である。
もとよりシノブは当時からこの香水を愛用していた。しかしそれはシノブだけの話である。侍女のキミ子らがそれを身につけたことはない。一瓶が二百円という驚くべき高価な香料だもの、いかに流行といえ、第一級の金満家の夫人令嬢以外には手のとどかないものであった。当時の二百円は戦前の一万円にも当ろう。今なら何百万円の香水ではないか。
シノブ愛用の香水を侍女が身につけているのは意外であった。貴婦人はその香水が己れ一人に独特なのを誇るのが常識ではないか。だが、そのような常識論よりも、もっと奇怪な、謎のような暗合があるのだ。
それは兄が呟いたフシギな言葉、アラビヤの国の名エルサレム、それであった。
それが単にアラビヤの国名のみならば、まだしもそれに多く拘《こだ》わることは滑稽かも知れない。兄は長々と
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