彼は大伴家の莫大な財産について世俗的な関心がなかったから、義兄の風変りな結婚も、その妹と結婚した自分のことすらも、大伴家の財産をめぐる誰かの意図によるものだということを久しく気附かなかったほどである。
 しかし、それに気がついた今日に至って、義兄が廃人として精神病院の一室へ運び去られたこの悲劇の終幕を知ると、この劇の性格や秘められた意図を劇のソモソモの始めから見直して、考え直す必要があるということに彼ほど鋭く心のうごいた者はなかったかも知れない。
 彼は己が妻の観察を信じていた。なぜなら彼女の心が正しい位置におかれていることを彼は確信していたからであった。
 エンマの法廷へひきだされた義兄は、叔父が義姉を指して、あれはそなたの何者に当る人かと無礼な問いを発しても、激するところなく、ただ問われたことに対して正しい返答をすることだけに心をきめた「最も聡明な人のみ示しうる態度」で応じたという。
 義姉の姿が侍女の姿に入れ代ったのを見出したとき、彼の挙動はおどろきを示したが、やがてそのおどろきを圧し鎮めることができた。そして、第二の問いに対しても正しく返答することにのみ心をきめた聡明な人の態度を失うことはなかった。
 侍女の姿はさらに第二の侍女の姿に変っていたが、それを彼が見たときも、聡明な人の態度は失わなかッたのである。彼が第三の問いに答えた時に人々のザワメキが起った。そのザワメキが示している意味に応じて、彼はにわかに総てを投げた人の態度を示したようであったというが、その反応は、三人の女の姿の一人ずつ入れ代っての現れに応じて起ったものではなくて、それに対する自身の信ずる正しい応答を終ってのちに、人々のザワメキに応じて起ったものであった。
「すると、三人の女が、一人ずつ姿を示したときには、義兄は多くの衝撃をうけなかったのだな」
 と、通太郎は心の中に、一ツの事実を確認した。
 義兄の態度が心にうけた激しい衝撃をマザマザと示したのは「三人の女が同時に並んで立っているのを見た」ときからであった。
 ここに、どれだけの差があるのであろうか。三人の姿が一人ずつ現れたことと、三人同時に並んだことに。
 義兄は三人の女は同一の一人である、と信じている。その言葉は、通太郎も自分の耳にたしかに聞いた。義兄は異った三体が同一人物の物であることを信じているのに、信ずる事実を目の前に見て衝撃をうけるイワレは何事によるのであろうか。
 一人ずつ現れた時と、三人同時に現れたときに、他の人々には分らないが義兄にのみはその意味が分り、そして大きな衝撃を与えるイワレをもつ何かの変化が巧妙に施されていたに相違ない。
 しかし、そのような衝撃を加えるものとして、また他の人々には気附かれない変化の上に施されたものとして、どのような事実の存在を考えうるであろうか。
 三人の位置か? 順か? 服装か? 表情か? あるいは義兄の混乱が三人の女の姿を認めたためと見せかけて、実は三人の女のほかに、他の重大な誰かの姿を認めさせたのであろうか。
 通太郎はその疑問を克子に訊きただしたが、それに対して克子は答うべきものを殆ど持ち合せていなかった。彼女の注意は、ひたすら兄を案じる不安の故に、兄の姿の上にのみ主としてそそがれていたからであった。
 彼女はしかし思いだそうと努力してみたが、力がつきて、
「そればかり見ていた筈の兄上のお姿まで、アリアリと順序正しく思いだすことができないほどです。三名の婦人は姉上、キミ、カヨの順に現れて、またその順に一しょに並んで立っていたと思いますが、確かではありません。服装は、キミもカヨも常に客間へ接待にでるときの侍女の服装のままでした。その壁際には他に人の姿が近づいたことはなかったようです。三名の婦人の方は出入の時機をかねて承知のように、自分で時を見はからって厚いカーテンの陰から思い思いに往復していたように思われました。指図をしている者の姿も、打ち合せている様子も、認められませぬ。しかし、カーテンの裏に時機を見て指図していた誰かが居たのかも知れませんが、その者がカーテンの外側に姿を現したことはありませんでした」
「カーテンの陰に誰かが指図していたとすれば、その者は同時刻にカーテンの表の側に居ることはできない筈だが、質問役の晴高叔父上がそれでないのは確実。次に大伴家に深い関係ある人々で、広間に姿の見えた人、見えなかった人を思いだしてごらん」
 克子はこう訊かれたが、叔父のほかには親しい人の姿を法廷で見た覚えはなかった。なぜなら、大貴族や大博士やその従者のみが主要な座を占めており、それだけが甚しく威圧的に目にしむ全部に見えて、その陰にいる誰かについて気を配る余地はなかったからである。しかし、大伴家に縁故の人で、当日来邸していない人は一人もなかったようである。他
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