心中に起った思いを読みとったのであろう。そのザワメキを身に浴びたとたんに、彼は一切の意志したものを投げて、すべての気乗りを失った様子であった。
「オレがいかに真実を語っても、どうせ誰にも分りやしないのだ」
 そう語っているように見えた。
 さッき示したあの聡明な態度、己れの信ずる正しい真実を語れば足りると心に定めた人の落ちついた態度から、このように総てを投げた態度に変るには、たぶん彼の心に、もはや人々に理解してもらうことを諦めた変化が起ったのだろう。
 彼は親の意志によって心にもないことをせざるを得ない子供のように、オツキアイだけの視線を、その方向にふりむけた。と、その瞬間に、この部屋に落雷があったようだった。部屋のマンナカの彼の姿だけがたった一人切り離されて、無音のカミナリに叩かれたように見えた。
 彼は視線をふりむけたところに三人の女の姿を認めたとたんに、その中間の姿勢のところでバネがきれたように停止した。次にカミナリが何かの意志によって冷めたい石の姿にちぢんで行きつつあるように見えた。と、彼の全身は静かにふるえはじめていた。ふるえは次第に高くなる。少しずつ。実に、少しずつ。満潮の静かなキザシが数日後の颱風の怒濤にまで少しずつ少しずつ高まるものを示していると同じような緩慢な過程に見えた。
 ところが、その次の一瞬間に起ったことが、それを注視しつつあった各人によっても、まるで違った物を見たように印象されているのである。なぜなら、思いがけない影が目を掠めて走ったような唐突きわまる一瞬の変化が、アッと思うヒマもなく起って、終っていたからであった。
 克子の目が見たものは、こうであった。その時までの兄の姿勢は、意外きわまる物を見出した人が内心の混乱と争いつつ必死にそれを見まもる時の姿勢のように、あるいは恐怖のあまりそれに飛びかかる寸前の姿勢のように、両手を胸の両脇にシッカとちぢめて小腰をかがめて、そして、ふるえはじめているのであった。と、その一瞬に、胸の両脇にちぢまっていた両手が、そして、ちぢまったままふるえる以外にはどうしようもないように見えていたその両手が、にわかにパッとひらいて各々天の方向に延びきったように思われた。
 それはその両手の手首につけておいた操り人形のヒモを、その一瞬に誰かがヤケに引っぱりあげた結果に起った突然の動作のように見えた。まったくそのような一瞬間のハジカれた動きであった。にわかに両の手がパッとひらいて天へ延びると同時に、それにつれてちぢんでいた両足もいくらかは延びたものか、もしくはいくらか飛びあがったのかも知れない。人々は宗久の手も足も全部の動きを捉えることはとても出来なかったのである。ある一人の人は、柳の枝に飛びつこうとしている絵の中の蛙のような姿が衝撃的に起ったのだと言っているが、克子が見たのもそれに似た人の姿であったかも知れない。それに似た影が一瞬に起って、一瞬のうちに終っていた。そのとき、一瞬の影から発したのか、他の位置の他の物体や人体から発したのか、誰にも正体を捉える術がなかったような一ツの音が、同時に起って、終っていた。その影にも音にも、前ぶれがなくて、後に残った動きも響きもなかったのである。まさしく一瞬の影が唐突に過ぎただけのことであった。
 影は、そこに、倒れていた。大伴宗久は、彼が立ちすくんでいた場所に、今や、ただ倒れていただけであった。
 大博士たちと大貴族たちとによる鑑定人も立会人も、相手の身分を考慮して意見の発表をためらうような考慮もいらなかったが、第一、相談までにも及ばす、各々が目を見合せて総てが一決していたようなものであった。
 侯爵大伴宗久は、その倒れた位置から精神病院の一室へ運び去られてしまったのである。否、彼はその位置に倒れた時から、もう侯爵ではなかったと言うべきかも知れない。否、その瞬間から、人間ですらもなかったかも知れない。そこに倒れていたものは、もはや影にすぎなかった、と言うべきであるかも知れない。
 南国の一角に千年の王者であった大伴家はこの一瞬に亡びたのであろうか。あとに残ったものは、ただ莫大な財宝だけであった。それはシノブの手に帰したものであろうか。

          ★

 宇佐美通太郎は、妻の語る現実の悲劇を、そして、その悲劇中の一人物の語る言葉を科学者の注意深さで、熱心に耳にとめ、心にとめようと努力していた。けれども俗事は陰険で表裏が非科学的に複雑であるから、いくら注意深くても、世事にうとい科学者の見逃し易い要点があった。その代りには、アベコベに、世事に通じた人々が見逃し易いものを確実に捉える場合もあった。
 また彼は最も世俗的な要点を見逃し易い代りに、いったんそれを発見して心にとめると、その重要さを人一倍理解して、さらに奥を究める能力があった。

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