の時刻や他の部屋では、須和康人も、久世喜善も、隆光も、小村医師も、三太夫の宮内もみんな顔をそろえていた。
 通太郎はあれこれ思いめぐらしたが、
「とにかく誰かが兄上を精神病院へカンキンするタクラミにもとづいて組みたてられた事であるにしても、兄上を救いだすには、兄上が狂者でないという証明をだす以外には手段がない。よろしいかね。この鑑定の場内へひきだされた兄上は、一人ずつ姿を示した婦人が姉上とキミとカヨであることを順に認めて、それが実は同一の人物であるという断定を示したことによって、満堂の人々にほぼ兄上は狂者であるという判断を与えたようだ。兄上が同時に現れた三名を見て気絶されるまでもなく、その時までの鑑定だけでも狂者としてカンキンされる運びになったであろう。ところが……」
 彼はわが妻をやさしく見つめて、
「あなたがその場で兄上のお姿を観察したところによれば、三名の婦人が同一の人間であるというお言葉以外には、この上もなく聡明な人のみが示しうる静かな落ちついた態度で終始せられたという。僕もあなたの観察を正しいものと信じるが、僕自身が兄上の病床をお見舞いした折の観察によっても、三名の婦人が同一人物であるという確信以外には異常を認めることができないように思っている。問題は、三名の婦人が同一人物だという幻想がどうして兄上の頭を占めるに至ったか。僕たちが何を措いても先ず解決しなければならない謎はこのことだね。少しでもこの謎をとく助けになりそうなものを、お互いにみんな思いだしてみようじゃないか」
 克子は思いだすことをみんな良人にうちあけた。病床の兄が突然通太郎にエルサレムの地名を知るかと訊いたとき、
「エジプトのナイルの流れが海にそそぎ、その砂が海底をわたって、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺に……」
 と妙な呪文のような前説明を加えたが、それはロッテナム美人術の広告の文章中のものであること、ロッテナム美人術とはいかなるものであるか、克子は自ら見聞したところを総て良人に説明した。
「兄上は心のよからぬ者は男も女も三位一体だとしきりに三の数にこだわっていらッしゃるようですが、私が妙にハッキリと覚えていることは、ロッテナム美人館の扉《ドア》ボーイの黒ん坊が扉の把手にかける左手の指が、三本指しかなかったことです。小指とクスリ指とがなくなっているのでした。気持のわるい手。私の目にいやらしい蛇のようにハッキリとしみついているのは、そこに謎をとく何かがあるという神様のお告げのようにも思われて……」
 と、こう云って、さすがに克子も顔をあからめたが、良人はそれをさえぎって、
「イヤ、イヤ。羞しがらずに、なんでも思いついていることを言い切らなければいけない。人様に云うと笑われそうな、神様だの先祖のお告げかも知れないと思うようなとりとめもない神秘的な暗示や思いつきなどに、案外にも正しいカンが作用しているかも知れないよ。その方がこの目でシカと見たことよりも時には正しい真相を見破っていることがある」
 こう云って、通太郎は妻をはげました。かくて二人はいろいろの疑問を提出して考え合ったが、宗久の幻想の由来はどうしても見当がつかない。そして二人は多くの疑問を残して寝についたが、その翌朝の目がさめたとき、克子の頭にフッと浮かんだことがあった。
「そうだッけ。ゆうべはあのナゼ? を思いだそうとしても分らなかったのに、それがこれほど単純な事実だったのは、フシギなほどだ。これに関聯したことはみんな思いだしていたのに、このことだけがどうして思いだせなかったのかしら」
 思いだしてみると、バカバカしいほど単純な事実であった。
 克子がゆうべどうしても思いだせなかったことと云うのは、彼女が一夜つきそっていた兄の枕頭をはなれて、別室に待つ人々に、異状なく過ぎた一夜の様子と、むしろ兄は安静を得て快方に向いつつありと判断しうる吉報などを報告にでかけた時のことである。
 その部屋にシノブの姿はなかったが、キミ子とカヨ子はいた、その二人を見た瞬間に克子はシノブの分身を見たと直覚した。何かの事実によってその直覚が起ったことを記憶していたが、いかなる事実によってであるか、それが昨夜はどうしても思いだすことができなかったのである。
 思いだしてみればバカバカしいことである。すぐその隣りに当ることまでは思いだしたり、こねまわしていたのであった。
 キミ子とカヨ子をシノブの分身と直覚したのは、二人ともシノブ夫人御愛用の高価無類のロッテナム夫人の香水「黒衣の母の涙」を身につけていたからだ。
 その何時間か前に、キミ子一人の姿を認めた時にも、この香水の香りに気づいて、甚しく意外な感にうたれていたのだ。この時の意外感は鮮明で、昨夜の克子はこの意外感のテンマツの方は思いだして良人に語っていたの
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