医学の先生のおすすめで海岸に別荘をたてて移りすむようになりましたので、今年の初夏以来、私が時々上京の折に住む以外には用のない物になりましたのです。ふだんは留守番の老人ひとり居るだけです」
「ではその事情を承知でロッテナム夫人が借用を申込んだのですね」
「懇意な方を介して至って気軽なお話があったのです。何か世間をアッといわせる美人術だとのお話で、どうせ用のない建物ですから、その知人の方もイタズラ半分に申しこみ、私もイタズラ半分の気持でとりきめてしまった約束でした。もっとも私がロッテナム夫人にお貸ししたのは階下だけです。それで充分だとの申込みだったのです」
「そうでしたか。この建物も奇妙なお役に立ったものですなア。まさか、あの大評判で開店した美人術がみるみる不評を重ねてわずかに一ヶ月ほどで立ち退くことになろうとは思わなかったでしょうが、失礼なことをお訊きするようですが、ロッテナム夫人が当家を去るとき、日本では俗に夜逃げと申すような退散ぶりであったとか。世間ではそう申しておりますが」
婦人は面白そうに笑って、
「ロッテナム夫人の立ち去る姿も、立ち去った時刻も誰も知らなかったと思いますが、もとよりこの地に居る筈のなかった私はそれを存じませぬ。しかし、俗に日本で申すような夜逃げとあらば、そうではなかったと申せましょう。なぜなら、ロッテナム夫人は多額の前金をそっくり置き残して立ち去ったのですから。それは三ヶ月分の家賃ですが、日本の常識のないような多額の家賃を一人ぎめにして、私は前金で受けとりました。むろん知人を介してです。私は今でも二ヶ月ぶんの負債があるようで、人々がロッテナム夫人の退去について夜逃げなどと仰有《おっしゃ》るのを承ると、なんとなく憂鬱になるのです」
「それを知らないために大そう失礼いたしました。なるほど、ロッテナム夫人は金銭上のことではなく、ただ世間の不評に居たたまらなくて立ち去ったのですね」
「そうでしょうか。私が三ヶ月分の前金を受けとりましたように、ロッテナム夫人は元々三月以上はこの土地に住まないツモリと違いましょうか。知人から邸を借りたいと話があった時にも、本当に利き目のある術ではなくて、インチキと承知で世界中を渡り歩き、たまたま繁昌すればその期間だけその地に落ちついているという歴然たる罪人だという話でした。しかし、日本でだまされるのは名流中の名流婦人だ
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