に、次のような呟きをつけ加えた。
「ねえ、君。開店と同時に日本中の名流婦人のアコガレがその一店に集中するということは、千万人の長屋のオカミさんを動かすよりも難事業かも知れないのだが、このフシギが実際に行われたにも拘らず、この大仕事を企てて実行した人物が誰だか分らない。こんなベラボウなことがあるかねえ。これが本当にスパイ事件なら、我々外交官に外務をまかせる日本の運命は危いものだが、しかし我々の不明のみでもない理由もあるのさ。敵の目的がスパイと分れば我々が蔭の人物をつきとめる目安もつくかも知れないが、ロッテナム夫人を使い、三貴人をうごかして、たった一ヶ月足らずでたちまち馬脚を現したといういろいろの事実の組み合せからは、我々外交官にはどうしても事を謀った人間の目的を知ることができないのだ。そしてそのために、真の陰謀の主を推定する根本的な手がかりを失っているせいだよ」
 これが宇井のギリギリの本音でもあったであろう。外交官の領域では理解しがたいところへ問題の根がのびているらしい。
 しかし、新十郎は非常に感謝して、
「実に甚だ有益なお話だったよ。君が探偵して突きとめた成功談をきいても役に立つことはないらしいが、君が探しあぐねてサジを投じた悲愴なテンマツを偽らずきかせてくれると、おのずから犯人の姿がアリアリと出ているように見えるよ。その犯人の姿が見えないのは、御自分の頭の中の少しずつ寸の足らない推理を総動員して、その渦の中でもみまくられている御当人だけらしいな。実に本日の君は私にとってこの上もない恩人だった。この店の勘定だけでウメアワセがつくとは、ありがたい」
 新十郎がハシャイで、こんな皮肉なことを云うのは、実は皮肉ではなくて、本当に嬉しかった重大なことがあったのだろう。
 新十郎は宇井に別れた足で、さっそく通太郎夫妻を訪問し、
「私はあなた方の御依頼の原因が、バクゼンたる想像から出発しているにすぎないように考え、あんまり乗り気ではなかったのですが、どうして、どうして。もう、あなた方がお前やめてくれと仰有っても、この謎を解かなければ私の気持がおさまりません。それを報告にきました」

          ★

 ロッテナム美容院はどのようなものであったか、それを新十郎に語りうる克子は、たった一度シノブにつれられて行ったことがあるにすぎない。もっと深く内部の事情に通じているであ
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