、兄上はもはやこの世のお方ではございません。人々が精神病院の一室へ押しこめてしまったのです。兄上のお姿は再びこの世で見ることができませぬ」
克子が病床へ駈けつけて以来、次第に常態に復しつつあるかに見えた宗久は、意外にも妹の眼前で精神病院へ拉《らっ》し去られた。彼女が立会人であるかのように。
その朝、通太郎が辞去するときは、宗久はまどろんでいた。そのかなり安らかな眠りを見すまして、克子ははじめて一夜つめきった兄の枕頭をはなれて、待ちかねていた一同に好転しつつあるやに見える一夜の経過を報告した。目をさますたび、昼夜にかかわりなく起りがちだった病人の発作は、その一夜中起らなかった。
克子が兄の病床へ駈けつけたときは、兄は妹の顔を見ても、その現実と幻想との区別がつかない状態だった。しかるにその一夜のうちに、妹に関する限りは幻想は去り、いつの目覚めにも変りなく枕頭に侍っている妹を見ては、予期したことを確かめて安らぎを覚えるようであった。
「そのへんへフトンをしいて、お前も、もうやすんでは……」
と云ってくれたりしたが、それはすでに夜更けであることや、克子が夜もすがら枕元にいてくれる約束などを明確に意識している証拠であろう。現実と幻想がダブっていた日中には、五分前の約束も、今の時間も、現実的な知覚がなかったようである。
一夜あけて、兄は安らかに眠り、克子は希望にみちて枕頭をはなれ、一同にも吉報をつたえた。寝もやらぬ看病の疲れなどはまったく感じられなかった。湧きでてくる明るさだけで心がいっぱいだった。
むろん人々は喜んだ。その場に居合わせて喜ばない人はいなかった。晴高叔父も、須和康人も、久世喜善も。通太郎は云うまでもない。手持ち不沙汰な徹夜のツキアイなどのできないシノブ夫人は冬の陽差しが真南にまわる頃でないと目がさめないから、その場にはいなかった。しかし彼女の分身のような侍女のキミ子とカヨ子が居合わせて、よろこんでいた。そこで通太郎は安心して、妻に後をまかせて、いったん帰宅したのであった。
まったく、克子はそのとき、シノブ夫人の分身のような……、と、たしかにそう思ったことを記憶していた。今から思えば、この一つが不吉なツジウラだったのだ。シノブ夫人はこの席にはいない。どうせ、居る筈のない人だ。しかし、その分身のようなキミ子とカヨ子がいる。……
なぜ、それが、不吉なツ
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