呟いたではないか。
「エジプトのナイルの河が海へそそぎ、その砂が海底をわたり、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺……」
 これぞまさにロッテナム美人術の広告中の文章ではないか。兄がロッテナム美人術を知っているとはフシギなことだ。いつも書斎にとじこもり、世事に興味をもたぬ兄が。
「ここに、何かイワレがある……」
 克子は石のように、考えこんでしまった。しかし、どのようなイワレがありうるというのだろう。克子はただの一度だけ訪れたことのあるロッテナム美人術の店内の様子なども思いだした。別に思い当ることはない。ロッテナム夫人は醜女であった。エルサレムの生れというが、当り前の西欧人によく見かける顔とそう変りはない。
 変っているのは、むしろ煙りつつある香料の器をささげて寝椅子のまわりを歩く二人の黒人男女であろう。それはまさに真ッ黒けの逞しく大きな黒人男女であった。
 そう云えば、もう一人、黒人がいた。これも大きな黒人で、やっぱり頭髪がチヂレていたが、これは手術室にははいらない。ただ出入りのお客の世話をやき、扉を開けたてする役であった。そして、この黒人がドアに左手をかけたとき、克子は目にとめて奇妙によく覚えていたが、その左手の指はたった三本しかなかったのである。

          ★

 その翌日の暮方、克子はやつれ果てて我家へ戻ってきた。生きている人間の顔ではなかった。
 兄の病床を見舞って以来一睡もせぬ克子ではあったが、今朝はこんなにやつれてはいなかった。通太郎も急変にそなえて別室に一夜を明したが、事もなく一夜は明けて、その報告に病室から現れてきた克子の顔は、疲れはあっても明るかったのである。そこで通太郎も安堵して、克子を残して己れは我家へ立ち戻ったのである。
 しかるに短い冬の一日が暮れるまでの時間のうちに、妻は死の国を往復して、ようやく再びこの世へ這い戻ってきたような様子である。あの世を往復した人間にはこの世の挨拶がないのであろう。我家へ立ち戻って良人に再会しても感情すらもないようであるから、さすが沈着の通太郎も、
「まさか兄上の身にもしものことが……」
 と思わず立ち上ると、克子はようやくこの世の風が目にとまったように、良人の胸に顔を埋めてさめざめと泣きくずれてしまった。
「兄上は死にました」
 克子はむせびつつ叫んだ。
「おイノチに別状はありませんが
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