明治開化 安吾捕物
その十三 幻の塔
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝臣《あそん》だなア
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「なア、ベク助。貴公、小野の小町の弟に当る朝臣《あそん》だなア。人に肌を見せたことがないそうだなア。ハッハッハア」
五忘にこう云われて、ベク助は苦い顔をした。イヤなことを云う奴だ。この寺へ奉公して足かけ四年になるが、五忘の奴がこう云いはじめたのは今年の夏からのことである。そのときは、
「貴公、めっぽう汗ッかきだが、肌をぬがねえのがフシギだなア」
「ヘッヘ。お寺勤めの心掛けでござんしょう」
「ハッハ。それにしちゃア、毎晩縁先からの立小便はお寺ながらも風流すぎるようだなア」
なぞと云っていた。
肌を見せてはならぬ曰くインネン大有りのベク助だが、まさかその秘密が見ぬかれたワケではあるまい。
とは云え、この寺の奴らときては油断のならぬ曲者ぞろいだ。
今はなくなったが、芝で七宝寺といえば相当な寺であった。ところが、維新の廃仏毀釈に、この寺が特に手痛く町民の槍玉にあげられたが、それは住職の三休が呑む打つ買うの大ナマグサのせいであった。
けれども三休はおどろかない。坊主には惜しい商魂商才、生活力旺盛であるから、お経なんぞあげない方が稼ぎになろうというものだ。その上目先がきいているから、仏像がタダ同然値下りのドサクサ中に諸方のお寺の仏像をかきあつめ、十年あとではそれが大そうなモウケとなっているのである。
のみならず、生れつき手先が器用だから、自分で仏像をきざむ、倅《せがれ》の五忘には小さい時から仕込んだから、親子鼻唄マジリで年に二十体も仏像を刻めば大そうなミイリになる。泥づけにして、千年前、六百年前、何々寺の尊だ秘仏だと巧みに売りさばくのである。
たまたま旅先で箕作《みつく》りのベク助の器用な腕に目をつけた。これを雇入《やといい》れて、生産力が倍加したが、五忘の奴が父に劣らぬ道楽者で、父子相たずさえて遊興にふける。お寺の本堂でバクチをやる。ミイリはあるが、出るのも早くて、年中ピイピイである。
ベク助は住込みで月十円の高給。食住がタダで十円だから、相当な給料だ。三休と五忘は時に貧窮して、ベク助に金をかりる。すると天引き二割、月の利息二割で貸しつける。とりたてはきびしい。ベク助は大望があるから、今はせっせと金をためているのである。
ベク助は箕作りとはウソであった。
人殺しと牢破りの兇状もち。名古屋に生れて東京横浜で育ち、大阪で牢に入った大工の新八という名題《なだい》の兇状もちであるが、うまいことには牢を破って山中をうろつくうちに、熊と闘って額から頬へ平手うちをくらって、片目がつぶれ、片アゴをかみとられた。しかし熊を斬り殺して、熊肉を食いつつその場に倒れ伏して死を待つうちに、悪運つよく生き返ったばかりでなく、すッかり人相が変り、別人に誕生してしまった。
そこで箕作りのベク助と相なったワケだが、ここに一ツだけ変らぬ物があった。ベク助が人に肌を見せないのは、そのためだ。
肌さえ見せなければ、生れ変ったこの人相、肌を見せないことが多少怪しみをうけても、真の秘密が見破られることは有りッこないとベク助は自負していた。油断のならない五忘だが、肌を見ない限りは、ほかに見破る手掛りはないはずだ。
「小野の小町の弟の朝臣だなア。ハッハッハア」
と、又してもチクリとやられたが、何を小癪なと、もうベク助は相手にならないことにしていた。
すると、五忘は高笑い。
「なア、ベク助朝臣。ガマと自雷也《じらいや》をしょッてちゃア、重たかろう」
まさにベク助の心臓を突き刺す一言。人殺し、牢破りの兇状もち大工の新八の取り換えのきかないのが脊中の皮だ。ガマと自雷也、天下一品とうたわれたホリモノ。今では天下一品がうらめしいのである。これあるためにベク助になりきれないのがうらめしい。
大胆不敵のベク助も色を失ってキッと立つ。自然にノミをつかんで構えたが、五忘はそれを見てカラカラと笑い、
「坊主首をたッた一つ斬り落して元も子もなくしちゃア合うめえやな。ときにベク助朝臣と見こんで頼みの筋があるが……」
相手の腹を読みきっておちっき払った五忘の様に、ベク助も殺気を失ってしまった。
★
氷川の海舟邸から遠からぬ田村町に、島田幾之進という武芸者が住んでいた。
彼がここに道場をひらいたのは五六年前のことであるが、その前身に白頭山の馬賊の頭目だという人もあれば、シナ海を荒した海賊だという人もある。
彼の住居と道場の建設には平戸久作という人が当り、それが完成すると、島田一族三名が手ブラで越してきた。ただ一ツたずさえてきた皮の行嚢《こうのう》の中に黄金の延棒が百三十本ほどつまっていたという話が伝わっている。その何本かを無造作につかみだして平戸久作に手渡したという。
平戸久作はシナで棉花の買いつけをやって産をなした相当の実業家であるが、それが膝をまげて仕えるからには余程の大物、曲者だろうという臆測なのだ。
島田幾之進は五十がらみの六尺豊かの偉丈夫。家族は子供二人だけ。上の男が三次郎で、年はハッキリ分らない。なぜなら、これが俗に云う福助、頭デッカチの一寸法師で、三尺あるなしの畸型児だから、見ただけでは年齢が判らない。二十から二十五ぐらいで、どの年齢にも見える時がある。
ところが妹をサチコといって、これは目のさめるような美少女だった。年は十八。気品あくまで高く、白百合よりも、清く、さわやかである。
しかるに彼の道場に入門を許された者が、五ヶ年間にようやく十五名である。すくなくとも数百名が入門を志したり、ヒヤカシに出むいたりしたが、その全員が当時十三のサチコの杖に突き伏せられ、噂をきいて他の道場の師範代程度の使い手が一手試合に出かけたこともあったが、サチコのくりだす杖の魔力に打ち勝つことができなかった。
道場の看板に武芸十八般とある通り、入門を許された十五名は朝から夜まで諸流の稽古に休む間もないほどである。
彼らは稽古について多く語ることを避けるから道場内の生活はよく分らないが、師を尊敬することの甚しさは門弟一同に共通したものであった。
そこで世間は取沙汰して、由比正雪の現代版現る、なぞと説をなすものが次第に多くなった。
由比正雪は天下を狙ったが、島田幾之進は何事を策し、何事を狙うか。馬賊、海賊の手下を養成するか、さてこそ口サガない人々は島田の門弟を指して、
「馬賊の三下が通るぜ」
なぞと云う者もあるほどだった。時の怪物と目されて、世人のウケは一般によろしくなかった。
けれども十五名の門弟の数名に近づきを持った人なら、決して島田を悪しざまに言う筈はなかったのである。門弟に共通していることは、彼らが一様にいわゆる豪傑風の武骨者ではないことだ。むしろ豪傑の蛮風から見れば文弱と称してよろしいほど、礼節正しく、常識そなわり、円満温厚な青少年のみ集めていた。したがって彼らの体格は一見弱々しい者が主であった。そして何年たっても武芸者然とはならなかったが、特別な心得の人が見れば、彼らがすでに相当の手練を会得しつつあることが了解し得たであろう。けれどもその特別の心得なるものが、当時の武芸者には欠けていた。彼らが主として学んでいたのは杖術ならびに拳法、むしろシナ流のカラテであった。その他、馬術、水泳から短銃、航海術等に至るまで学びつつあったのである。島田は短銃の名手でもあった。
カラテほど実用的な闘争術は少なかろう。突きも蹴りも必殺の急所のみ狙うから試合ができない。型だけだから実用的でないように見えるが、実はアベコベで、型が実用に役立つまで、敵襲に応じて万全の受けや攻撃を一手ごとに分離会得するまでには驚くべき練習量を要求する。この練習量はとうてい他の武術の比ではなく、したがって、この練習量に堪えるには平静温厚にして志の逞しい人格を要するものである。
カラテは徒手空拳、剣に対抗しうるが、これだけはとてもかなわん、というのが一ツある。それが杖術だ。今日も静岡に夢想権之助の神伝夢想流がつたわっており、私は先日、警視庁の杖術師範鈴木先生に型を見せていただいて、あまりにも有利きわまる術の妙に呆れ果てたのである。
棒の両端が交互に襲いかかるが、一端を見つめているとき、思いもよらぬ方角から他の攻撃が起り、ただ目がくらみ、為すところを失うのみであった。
杖術の存在を知り、その攻撃法を知り、それに対して特に訓練した者でなければ、いかな剣の巧者でも十三のサチコにしてやられるのが当然なのである。
カラテの広西五段は日本カラテ界の最高峰の一人だが(名人の次には五段が最高位である)杖術にはとても敵対できません、と語っているのである。
ふりかぶって振りおろす剣には広さが必要だが、四尺二寸の杖は、四尺二寸の手の幅が上下にありさえすれば自由自在にあやつり得るもので、これもまた意外の一ツ。三畳の広さがあれば縦横に使える。婦人の護身用としてこれほど有利なものはなさそうである。
かかる巧妙な術が流行しなかったのはフシギだが、カラテも杖もあまりにも実用的で、必殺の術であるのが、悟道化した武道界に容れられなかったのかも知れない。
島田が主として伝えたものはこれであり、そのために特定の人格を選んだのである。
「島田の道場に普請があってツンボの大工を探しているが、貴公ひとつツンボの大工に化けてもらいたい」
五忘がベク助に話というのは、それであった。五忘は言葉をつづけて、
「実は、オレの妹のお紺というのが島田道場で女中にやとわれているが、このお紺は生れながらのツンボで、オシで正真正銘マチガイなしの出来損いだ。そのほかに金三とかいうツンボでオシの下男がいて、島田じゃア、ツンボでなきゃア下女下男に入れない家法だ。もっともお吉という女アンマが出入りしているが、これはメクラだとよ。今度の普請もツンボの大工に限るそうだが、幸いなことに、貴公が無口で横柄だから、近所の者もあいつツンボじゃないかなどと言う者がいるのは都合がよい」
ベク助が無口なのは熊に片アゴかみとられてから舌がもつれてフイゴの吹いているような風の音がまじるのも喋りたくない理由であった。
「そこで貴公に頼みというのは、縁の下から抜け道をつけてもらいたい。ここに手附けが三百両。見事仕上がったら、耳をそろえて七百両進上しようじゃないか」
ベク助は特に逃げ隠れているわけではないが、隣り近所のツキアイというものを全くやっていない。
そこで島田道場という奇怪な存在についても知識は乏しかったが、五忘の話の内容だけでも一方ならぬ曲者であることは明らかであろう。ツンボとメクラのほかには出入りを許さぬというから、人に知られては困る秘密があるに相違なかろう。
五忘のタクラミは分らないが、ニセツンボで普請を仕上げるまでには五忘の奴にも分らない秘密が握れるかも知れない。こいつは一仕事、しがいがあると考えた。
★
普請は福助の三次郎と平戸久作の娘葉子の新婚のための新居であった。
ベク助は島田の逞しさにも驚いたし、サチコの美しさにも目をうばわれたが、福助の三次郎にも一驚した。
小人の身体に大頭をのッけたこの畸形児の目玉の鋭さはどうだろう。これは悪魔の目色だ。なんて深い光であろうか。どこにも油断がなく、どこにも軽やかな色がない。冷く凍りついた目であった。
島田幾之進もその眼光はただならぬが、そこには達人の温容がこもっていた。三次郎には、あたたかさ、甘さの影すらもない。日に一度顔を合わせることも稀れであったが、ベク助はその目を見ると石になるような悪感が走った。
「こいつ悪魔だ。化け者だぞ」
ベク助は自分の心に言いきかせる必要があった。
「こんな約束の違う野郎は珍しいや」
そうせせら笑ってみても、背筋を走る悪感はどうにもならないし、その正体はつかみようがなかった。
しかし、なにしろニセツンボになりきるのが何よりの大事で、まア、その心得にはヌカリがない自信はあ
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