に見覚えがあるので、ベク助は、
「ヤ、ヤッ」
と心に叫びを発した。二人は島田道場の門弟だ。一人は平戸久作の倅、葉子の兄の一成であるし、一人は大坪鉄馬という門弟中でも一二の俊英、師の信任をうけている高弟であった。
お吉の代りに若者が相手になると主人の声もはずんできて、ツツヌケにきこえる。
「平戸久作も小金に目がくらんだか。葉子を化け者のヨメにやるとは呆れた奴だ。のう、鉄馬。大坪彦次郎と平戸久作は生死をちかった無二の友。鉄馬と葉子は両家を一ツに結び合わせるカスガイだ。その堅い婚約には七年前にこのオレが立会っている」
主人の語気には若者を煽りたてる作意がこもっていた。
ところが鉄馬の返答は、意外に冷静沈着であった。
「平戸一成と大坪鉄馬は二人の父に代って、父と同じように生死をちかった無二の友です。葉子どのとの婚礼の必要はありませぬ」
「ほう。言うたな。しかし、なア。大坪彦次郎死後に至って挨拶もなく婚約を取消して化け者にくれてやる平戸久作の心が解せぬわ。イヤ。久作の心は解せる。化け者の人身御供に美少女を所望した島田が憎い。のう。久作に罪はないぞ」
「イエ。師も、先生も葉子を所望致されはせぬ」
葉子の兄、平戸一成の声であった。主人は相手の語気をそらして、うすとぼけて、
「ほう。師も、先生も、とは何事じゃ。師と先生と二人いるかな」
「師は島田幾之進先生。先生とおよび致すは島田三次郎どのです」
「あの化け者が何芸を教えおる」
「諸芸に神技を会得しておられます。弓をとれは飛ぶ矢を射落し、杖を握れば一時に百杖の閃く如く先生の姿を認めるヒマもありませぬ。短銃を握れば六発が一ツの孔を射ぬきます」
こればかりは主人も初耳であったらしい。しばらくは言葉に窮していた。
「島田も化け物も所望しないと云うのだな」
主人の声は噛んで吐きすてるようだった。一成はうなずいて、
「左様です。父の意志ではありませぬ。葉子が自ら所望しました。先生の不具の身にいささか憐れみの志をたてたのは滑稽ですが、その志に濁りや曇りはありませぬ。葉子の覚悟は一途です。至純です」
「ようし。さがれ。それがその方らの本心か。大狸に化かされるな。今に目のさめる時がくるぞ」
二人の若者はそれには答えなかった。ただ鄭重《ていちょう》に会釈して、静かに退去した。ローソクのゆれる火影に、主人の顔が一ツ残った。まるで気の狂った猫のように、その目に憎悪の閃光が宿っている。ベク助はここでも背筋に悪感の走るのを覚えた。
「どういう関係の奴らだろう。まるでオレには解せないが」
と、ベク助は邸を脱出して帰途についた。主人の標札だけは見てきたが、山本定信とあった。
ベク助は七宝寺へ戻ってきて、五忘に訊ねた。
「山本定信てえのは何者だね」
五忘の目がギラリと光った。
「貴公、本日、何を見たのだ」
「何も見ねえよ。そんな人の名をきいただけさ」
「名がでる筈はない。なア。貴公。その名は出ないよ」
「そうかねえ」
「そうだよ。だが、まア、いいや。貴公の仕事はそんなことじゃアなかったなア。山本定信てえのは、清の皇帝様の重臣だよ」
「日本人じゃアねえのかね」
「オレがお釈迦サマの友達、重臣だてえのを貴公も心得ているだろう。天下は甚だ広いものだ、なア」
「そうかい」
「下僕の金三に、アンマのお吉、ツンボとメクラがいただろう。貴公、それをどう見たかえ」
畜生メ。心得ていやがる。何から何まで油断のできないガマガエルだ。ベク助は癪にさわって、返答せずに座を立った。
蛸入とガマはみんな心得ているらしい。オレときては敵地へまんまと乗りこみながら、敵に見破られるばかりで、一向に確かなことが分らない。実にどうも面白くない有様である。
しかし、ここまで踏みこんだからにゃア、今にみんな正体を見ぬいてみせる。蛸入もガマもおどろくな。
とにかく話がみんなシナにつながっていやがるらしいから、そッちの方からタグリだしたらどうにかなろうというものだ。
ベク助はこう考えて計画をねった。
★
ベク助は翌日の仕事を早目に切りあげて、横浜本牧のチャブ屋へでかけた。そこのオヤジはシナ浪人のバクチ好きで、先に七宝寺の本堂へ時々バクチにきたことがある。横浜に通じているベク助、然るべき筋で手ミヤゲの阿片を買いもとめたが、これは訪ねるチャブ屋の亭主が阿片中毒だからである。
何よりの手ミヤゲ。その利き目は恐しい。亭主は秘密の別室へベク助をつれこんで、自分は阿片を一服しながら、
「そうかい。山本定信のことかい。あいつがつまり、これじゃアないか。この、阿片だよ。奴の北京居館は五十何室阿片でギッシリつまっていると云われているな。高位高官へタダの阿片を無限につぎこむ代りには、シナのことじゃアシナの公使よりも日本にニラミがき
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