神の正しい教えを身に体した偏見なき信女にあらず、と見ている。まだしも馬丁当吉夫妻が誰よりも偏見がなくて、士族も新平民も区別をもたない。
さて、重太郎は三枝子が主家の秘宝をこわして行方をくらましたときいて、妹はよくヤソの教えをまもって子供ながらも義務や責任をわきまえ、自らアヤマチを犯した時にとるべき手段をあやまるような娘ではない筈である。主家の秘蔵品をわって逃げ隠れをするとは思われないが、事実ならば妹を見つけだして主家へ詫びさせて、その将来をいましめなければならぬ。また無実ならばその真相をつきとめて妹の潔白を明かにしてやらなければならぬ、と心をきめた。
オソノは重太郎を世界一の偉い人と信じ、まずその妹の三枝子に愛されたい、誰よりも三枝子のよい友達でありたいとのみ望んで本当に姉妹よりも仲よしの二人であったのは、あるいはその原因の一ツが重太郎への一途の恋心のせいであったろうか。オソノは重太郎まで三枝子を一応うたぐるのが心外らしく、巡査の前も怖れずに、
「三枝ちゃんが瀬戸物をわったなんて、信じられません。人を疑るのは悪いことかも知れませんけど、ふき残されていた泥の足跡がたしかに二人の人の足跡なんです。大きさがずいぶんちがっていてハッキリ大小の別が分りました。きっと何かがあったんですわ」
「しかし、クラヤミで三枝子が花ビンにつまずいて倒れるようなことはありがちだね」
「いいえ。三枝ちゃんは手燭を持って立ちました。フトンをかぶっていましたけど、少しスキマがありましたから、三枝ちゃんの立去るのと一しょにだんだん暗くなったのを知っていました」
「しかし、三枝子が家宝をわって戸外へ逃げようとするのを由也さんが追っかけて、二人ともハダシで外へでて、いったん玄関まで連れ戻された、大小のみだれた足跡はそれを語っているような気もするよ」
「ですが、その足跡の一ツは三枝ちゃんではないと思います。なぜなら、いつもお寝床の始末をするラクさんが、今朝のお寝床は泥でよごれて大変だから手伝ってと仰有《おっしゃ》るので参ってお手伝いしましたが、由也さまのオフトンを入れる押入の中を見ると、その中にもう一人前のオフトンがはいっていて、それも泥でよごれていたのです。ラクさんが不審に思ってそのフトンをおろしてひろげると、オフトンの中は由也様のよりも泥だらけで、その中からメガネが現れました。由也様はメガネをお用いではありませんし、三枝ちゃんが男物のメガネをかけるわけは一そう有りえないでしょう。どなたか泥だらけの男の方が泊って夜の明けないうちに立ち去ったのだと思います」
これは意外の話である。同行した若い巡査は遠山というが、オソノに好意をよせ、それにひきつづいて重太郎に親しみを寄せたらしい。重太郎、三枝子、オソノの来歴や身分を知って非常に感ずるところがあったらしい様子であった。
「なるほど、何か深いワケがありそうだ。皆さんのお話の様子だと、三枝子さんが逃げ隠れするとは思われない。しかし死んだ形跡もないとすると、どういうワケになるのだろう。ぼくはそれを上申して取調べてもらいましょう。とにかく妹さんが行方不明という件ですから、一応署へ来て下さいませんか」
「承知しました。そして御尽力できることがありましたら、どうか調査の用に使って下さい。妹の有罪無罪いずれにしても、兄として真相をつきとめないワケには参りません」
そこで三人は警察へ行って、重太郎は形式上の質問をうけたが、井戸へもぐった佐々警部補は遠山巡査の疑惑を是として、さらに調査を命じた。そこで三名は母里邸へ行った。
重太郎がヘドの下にあったという書物をみるとシェクスピヤである。ローマ字でK・TOCHIOという署名があった。トチオという友人をきいてみると、すでに由也は外出したあとだが、ラクもオソノも栃尾という友人の名を知っていた、幸い住所も分ったから、白山下の彼の家を訪問すると、彼は在宅しておって、自分がその本の所持者であることを肯定したが、
「それは昨日時田に貸した本さ。時田と母里と川又という三人が遊びに来たから、時田にその本を貸してやり、四人で白山上のハゲ蛸という馬肉屋へ行って飲食した。時田は非常に秀才だが酒癖が悪くて、酔うと前後不覚になって喧嘩口論、手荒なことをやる奴だ。昨日もそうさ。そこへピカリと光りはじめたからいそいで散会したが、時田が酔っているので方角の同じ母里がつれて行った筈だな。四人とも酔ってはいたな。川又はオレを送ってくれたから、オレが母里と一しょでないのは川又の奴が知ってるのさ」
白山上はすぐだから、遠山巡査と重太郎はハゲ蛸へ行ってみた。看板に書生鍋とあって、馬肉の鍋を主としてやっている。四人は常連だから、そこのオヤジはむろん知っていて、
「そうですよ。時田さんが、ちょッと口論のようなことを、ええ、
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