ぱりあげる用意をしてやり代る代る石を持たせて底をさぐらせ、自分も同様な方法で三べんも底へくぐって調べて、遂に井戸の中に誰の死体もないことを見とどけたのである。
「この井戸に身投げしたものは確かに居ないぞ。この近所に、ほかに井戸はあるのか」
 むろん当時のことで井戸のないウチはない。母里家の台所は田舎風の土間になっておって、台所の中に内井戸がある。そのほかに馬小屋の横にも井戸がある。この二ツをしらべてみたが、同様に三枝子の死体はなかった。近所の家の井戸も見せてもらッたがどこにも三枝子の死体はない。
「すると、井戸へ石でも投げこんで死んだと見せて、自分のウチへ逃げて帰ったらしいぞ。三枝のウチはどこだね」
「三枝ちゃんのウチは没落して家も身寄りもないらしいのですが、たッた一人の兄さんがオソノちゃんの実家に居候だかお客様だかで居るようです。ねえ、オソノちゃん。たしか身寄りはそれだけだったねえ」
「そうか。それではオソノの案内でちょッと確かめてこい。居たら連れてこいよ」
 と、若い巡査に言い含め、オソノの案内で下谷のオソノの実家へ向わせた。

          ★

 三枝子の兄は頼重太郎と云って、二十五になる大学生だ。苦学のために、年をくっているが、秀才でもあるし、豪胆な熱血児であり、正義を愛し、弱者貧民のために身をなげうとうと心をきめた快漢であった。
 オソノの実家は代々非人頭で、車善七の血統をひく今でも乞食の頭目。しかし彼は重太郎のすすめで五年前に乞食をやめ、薬種商をひらいている。実に重太郎が乞食の世界を巡歴して彼らを正業につかせようと努力しはじめたのはわずかに十七の時である。この少年の献身的な忠言に耳をかたむけてくれたのは、オソノの父、車長九郎あるのみだ。彼は薬屋をひらいて、輩下の希望者を行商人に仕立て、同時にとかく不衛生そのものの乞食どもにクスリを与え、まず健康、それから正業につかせようと努力した。けれども三日やると止められない乞食を先祖の代からやってる連中だから、誰も乞食をやめたがらない。生れつき乞食であるのに不服がないから、その身分に恥を感じなければ乞食をやめたがらぬのは当然かも知れん。
 車長九郎は輩下の者が自分を見ならってくれないのにガッカリしたが、学業をなげうって乞食のために献身しようという重太郎を今度は彼がいさめて再び学業につかせた。重太郎は学業のかたわら乞食部落に寺小屋をひらいて、乞食の子供に教育をさずけ、子供が大きくなった時には乞食部落が自然消滅するような長期計画の実行にうつった。彼はヤソ教の教会で知り合った同じ信者の今村左伝夫妻にたのみ、三枝子とオソノを母里家へ女中奉公にだした。というのは、今村カメ女は貧乏士族の娘で、同じように貧乏士族の左伝と結婚して母里大学の家令をやって細々生計をたてているが、実は今村カメ女と云えば歌人としても名があるし、書道、華道、茶道、料理に一流の見識があって、その道では重んぜられている人だが、深くケンソンして弟子をとらず、清貧に甘んじ、それを知る人々には一そう奥ゆかしく見られておる。カメ女がそういう人であるから、妹と乞食の頭目の娘の身分をあかして、その膝下に行儀見習いにだした。弟子をとらず、また自宅に女中をおくような人ではないから、託された二人を母里家に奉公させて行儀を見習わせることにしたが、母里大学は乞食の娘ときいても驚きもしなかったが、妻のヤスノと娘の多津子は乞食の娘ときいてオソノと三枝子をいやがる。特に娘の多津子はオソノと三枝が非常に容姿の美しい娘であるから、それにネタミを持つのか、いろいろと二人にイヤガラセや辱しめを与えたりする。また先輩女中のハツエがこれ幸いとそれをたきつけるようにする。多津子は父母にせがんで、貧乏士族の娘の佐和子というのを女中にやとってもらい、それを自分たちの小間使いにして、
「佐和子は士族ですから佐和子に私たちの身のまわりを見てもらいます。ハツエも町家の出だからまアよろしい。お前方二人は乞食の子だから、穢らわしいから私たちのお部屋へはいらないように」
 折にふれて、こう云う。大学生の由也は先妻の子だが、兄が三枝子やオソノに用を云いつけるのにもヤキモチをやいて、兄がそうしないように中傷したり二人にシクジリをさせるような陰謀をたくらんだりする。三枝子は重太郎の妹。兄は乞食部落に住んでいるが、没落したとは云え、歴とした旗本の子孫だ。その旗本というのがシャクにさわるから、これも乞食の妹ときめている。
 今村夫婦は一応それをかばうように取はからってくれもするが、実はやっぱり旧弊が身についているから、先祖代々の乞食の娘ということに色目をもっていることは、当人が何よりそれを感じ易くて、三枝子とオソノはまだ子娘ながらも今村カメ女必ずしも奥ゆかしい超俗の詩人にはあらず、
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