かにはこの店には食う物がないよ」
「ここに居るうちに酔って吐いた人は?」
「そんなことまで一々分らないよ。外へ小便にでてのことを一々ついて行って見ているとでも思うのかい」
「誰か本を持ってた人は居なかったかね」
「書生さんはたいがい本をフトコロに入れてらアな。そんなことが一々覚えられるかい」
 ハゲ蛸は面倒になってカンシャクを起したらしいが、この重太郎の質問をきいて、遠山巡査はそれが要所をついているのに面くらッた。メガネの件は特に重大でなければならぬ。時田がこの店を去る時はメガネをかけていたのだ。
 時田の家はハゲ蛸と母里家の倍あって、母里家がちょうどマンナカぐらいである。非常に広い邸で、父母はすでに死んでるが祖父が、健全だ。時田は大学を卒業すると祖父が隠居して彼が家督をつぐはずで、それは来年のことだという。相当な財産家らしい。多くの女中はよくシツケがとどいていて、時田はすでに当主のように扱われているようだ。来客中で、それは由也であったが、洋風の大きな応接間へ現れた時田は女中の不用意な言葉を遠山巡査からきくとやや狼狽して、その事実を否定した。
「時田さんはメガネをかけてらッしゃると伺いましたが、どうかなさッたのですか」
 重太郎にきかれて、時田は蒼ざめた顔をあげて彼を睨むように見返した。腹をすえたような感じであった。
「メガネは部屋においてますよ。つまらぬことはやめて、用件を云いたまえ」
 遠山がひきとって、
「実はそれが用件なんですが、あなたのメガネと思われるものが妙なところから現れたのですが」
 そこまでは時田は実に平然ときいていた。と、遠山が意外にも、
「実はそのメガネは母里さんの裏庭の井戸の底から出て来ましたが」
 テコでも動くまいと思われた時田の顔に、まるでポッカリと大穴があいたようなビックリ仰天の表情が現れた。実に心底から動揺してしまったのである。彼は大きな目玉をむいて、
「井戸の底から! 知らないぞ。そんな井戸は。オレはメガネをなくしたことはない」
「そうですか。では、お部屋のメガネを見せて下さい」
 時田の顔はゆがんだ。すぐ気をとり直したが、二人の鋭い目はそれを見のがさなかったし、メガネをとりに去った彼の様子は、後向きになるとにわかに気が弛んでか、ひどくガックリと重く悲しい足どりになったようだ。十分たっても時田は戻らない。遠山はにわかにクツをはいて飛
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