ときいたのもそれがはじめて。彼の預金がその銀行に一万七千円あると知って幸平が借財を申しこんだときいて、さすがに彼の目の色がちょッと動いたようであった。
 三ヶ月ほどは彼はそれに何の返答も与えなかったが、ある日ミネをよんで、
「幸平に命じて、一万七千円の預金をおろして土曜の午後こゝへ来るように言うがよい。土曜の午後早いうちに来るのだよ」
 と印鑑を渡した。
 ミネは大そう喜んで幸平に知らせたから、生活の破局に瀕していた幸平の感激は話の外である。
 一万七千円の現金をおろして宙をふむ思いで実父のもとを訪れたのである。
 来てみると、すでに来客が二人いる。一人は常友である。料亭の小僧に出された常友は実直に板前をつとめて一人前の職人になっていたが、イナセな板前たちの中ではグズでノロマで、気立ては一本気で正直だが、腕と云い、頭の働きと云い仲間の中でパッとしない存在だった。そのうち吉原の娼妓の一人と相愛の仲となって結婚しようと堅い約束をむすんだが身請けの金がない。当時は実母のお清も健在だから、何十年はたらいても三百円という大金がたまるわけはない。しかし、たった一人の息子が身をかためるという話である
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