面倒はございません。まったくの赤の他人で」
 ひどいことを云う奴ですが、これにはワケがある。今日はこんなことをズケズケ云うが、倉三も奉公中はなかなか口の堅い男で、主家の話をしたがらない風があったが、ヒマをもらえば赤の他人、酒に酔わせて語らせて隣家の世にもまれな珍な内幕をききだそうという草雪の物好き。
 隣家の水野左近は維新までは三千六百石という旗本の大身であった。彼の祖先は代々相当の頭脳と処世術にたけていたらしく、今日で云えば長と名のつく重役についたことはないが、局次長とか部長という追放の境界線のあたりで、人目にたたずにうまい汁を吸うのが家伝の法則の如くであったという利口な一家。維新の時にも左近はちょうど休職中で、ために人目にたたずに民間へ没してしまった。しかし彼は小栗上野《おぐりこうずけ》と少からぬ縁故があって、当時も目立たぬ存在であっただけに、幕府の財物隠匿にむしろ重要な一役を演じているのではないかということが一部の消息通に取沙汰されたこともあった。
 高田馬場の安兵衛の仇討跡から、太田道灌の山吹の里の谷をわたって目白の高台を登って行くと、当時は全くの武蔵野で、自然林や草原の方が多
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