ある。けれども戸籍の上でも実生活の上でも倉三お清の子供。ところが左近は維新のとき自分の子供たちを処分した際に、倉三お清にも命じて、お前たちのような貧乏人が子供を手もとに、育てゝおくバカはない。奉公に出してしまえ、と命じて、料理屋へ小僧にださせた。
 今や左近は七十五。ミネは五十。先妻の子ムラクモはミネと同年の五十。ミネの長男正司は三十。次男月村幸平は二十五。常友が三十であった。
「八九年前のことですが、菓子屋の玉屋が没落しまして正司様が路頭に迷ったことがありましたが、そのとき玉屋の主人が正司様をお連れして旦那様にお詫びを申上げ、せっかく御子息様をお預りしながら店じまいするような面目ないことを致しまして相済みません。しかし御子息様も今では一人前の立派な職人、どこへ出しても恥しくない腕ですから、本来ならば手前がノレンをわけて差上げなければならないのですが、それが出来ない事情になりましたので、手前に代って店を持たせてあげていただきたい。こう頼んであげたんですが、このときの旦那の返事がよく出来ていましたなア」
 倉三は酒にほてった顔をツルリとなでて、妙な笑い方をした。彼は酒をあまり飲まないが水野左近に奉公した身の不運に一生うまい物も食いつけないから、草雪のもてなすあたり前の料理がうまくて大そう食いッぷりがよい。
 そのとき左近は玉屋の主人にこう云ったそうだ。
「お前さんが没落すれば職人が路頭に迷うのは当り前だな。主家がそうなれば、職人がそうなる。それは仕方がない」
 ミネも涙を流して頼んだが、そんなことでちょッとでも心が動くような左近ではなかった。彼はキセル掃除のために常時手もとに用意しておく紙をとってコヨリを二本つくって、
「主家の没落でオレも路頭に迷っているが、お前さん方は手に職があるから、将来に希望が託せる。オレには貯えもなければ希望もない。お前さん方に何もあげるものがないが、このコヨリを一本ずつあげよう。コヨリのようにいろいろの役に立つものは珍しいな。下駄のハナオにもなるし、羽織のヒモにもなるし、魚のエラを通せば何匹もぶらさげることができて大きな紙もフロシキも使わずにすむ。紙やフロシキで魚をつつむと汁がにじみでて悪臭がうつッて困るものだが、たった一本のコヨリで都合よく魚をぶらさげて運ぶことができる。これをあげるから大事に使いなさい」
 コヨリを二人のヒザの上へ一本ずつのせてやって、
「もう午ぢかいから、食事どきには早く帰るのが礼儀だね。礼儀をわきまえてなければ益々路頭に迷う」
 路頭に迷ったわが子に一食を与えることも許さない。
「菓子屋を一軒ずつ廻って歩けば使ってくれるとこがあるはずだ。それをせずにここへくるのが心得ちがい。主家が没落したにせよ三食や四食のゼニぐらいは貰ったはずだろう」
 とミネの涙ながらの懇願にも全くとりあわなかった。
 なるほどそれで理窟は通っているようだ。正司は彼が云うように一軒ずつ菓子屋を廻って歩いて、玉屋の主人の口添えもあって、就職することができた。しかし子飼いからの店ではないから、居づらい事情が多くて、店から店へ転々として、三十にもなりながらまだ住みこみの一介の平職人。妻帯する資力もない。
 ミネの兄、月村信祐の養子となった幸平は、多少の学問もさせてもらって、銀行員となった。資本金三十万円ほどの小さな国立銀行であるが、はからずも彼は、そこに実父左近の預金が一万七千余円あることを知った。当時としては相当の大金と云わなければならない。
 ところが左近の預金は他の銀行にもあった。なぜなら彼は月末になると馬に乗っていずれへか金を引き出しにでかけるが、それは幸平の銀行ではなかった。彼は極端のリンショクにも拘らず、乗馬の趣味だけは今もってつづけているが、一つには実用のために相違ない。老人の足代りに当時としては馬が一番安直だったかも知れないのである。馬丁に手綱をとらせず、一人で走り去る時は、散策もあるかも知れぬが、銀行通いのような人に知られたくない用件があってのことだ。彼はこまかい金で一ヶ月の生活費をチョッキりうけとってきて、概ねツリ銭のいらないように小ゼニを渡して買物を命じた。しかし、左近は幸平の銀行へ現れたことはなかったのである。
 幸平の養父母は他界して、彼が一人のこされたが、十七の若年から銀行員となった彼は二十の年には一ぱし経済界の裏面に通じたような錯覚を起し、株に手をだして失敗した。すでに父母がないのを幸いに家財をもって穴をうめたが、こりるどころか益々熱をあげてひきつづいて、相当の穴をあけてしまった。そのとき万策窮して、実父の預金があることを知っているから、ミネに事情をあかして借財をたのんでもらった。
 左近は自分の子供がどこで何をしているか、そんなことは気にかけたことがないから、幸平が銀行に勤めている
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