ときいたのもそれがはじめて。彼の預金がその銀行に一万七千円あると知って幸平が借財を申しこんだときいて、さすがに彼の目の色がちょッと動いたようであった。
 三ヶ月ほどは彼はそれに何の返答も与えなかったが、ある日ミネをよんで、
「幸平に命じて、一万七千円の預金をおろして土曜の午後こゝへ来るように言うがよい。土曜の午後早いうちに来るのだよ」
 と印鑑を渡した。
 ミネは大そう喜んで幸平に知らせたから、生活の破局に瀕していた幸平の感激は話の外である。
 一万七千円の現金をおろして宙をふむ思いで実父のもとを訪れたのである。
 来てみると、すでに来客が二人いる。一人は常友である。料亭の小僧に出された常友は実直に板前をつとめて一人前の職人になっていたが、イナセな板前たちの中ではグズでノロマで、気立ては一本気で正直だが、腕と云い、頭の働きと云い仲間の中でパッとしない存在だった。そのうち吉原の娼妓の一人と相愛の仲となって結婚しようと堅い約束をむすんだが身請けの金がない。当時は実母のお清も健在だから、何十年はたらいても三百円という大金がたまるわけはない。しかし、たった一人の息子が身をかためるという話であるから、お清はワラにすがっても何とかしてやりたい胸の中思いきって左近にたのんでみた。
 左近はその借金の申込みが吉原の娼妓の身請けの金ときいて、興がった。彼は馬にのり、倉三に手綱をとらせ、常友に案内させて、吉原へ出かけて行った。
 彼は遊里というものを知らなかった。傾城《けいせい》にマコトなし、などと云うのに、相思相愛というのが解せない話で、そういうものが実在するにしても一興だが、行ってみてコトワザの方の真実を裏づけるような事実を見るのも一興である。ナニ、吉原見物そのものが一興。身請けとは古風な話。乙な理由にかこつけて傾城の部屋を訪ねて傾城をあッちこッちからユックリ眺めて、マコトありや、マコトなしや、否、そういうことは二の次、三の次、傾城を肌ちかくトックリ眺めて遊里の生活にふれてみるのがたのしい。見物料も別にいらないらしい。いるかも知れぬが、それは常友が払う金だ。
 さて吉原へ乗りこんで常友の女に会ってみると、大そう良い女だ。常友のようなグズで人のよい男を選んで一生の男ときめるのは、むしろ利口で勝気でシッカリしている女だからで、いかにも小股の切れあがった感じ。社交性があって、当りがよい。左近は自分がムコになったようにニタリニタリとなんとなく相好をくずすていたらく。三百円貸していただいて身請けはさせていたゞいても常さんの板前の稼ぎではいつ返済できるか分らない。それを思うと板前さんの稼ぎなんて心細くて、たよりない。吉原で相当格式のある貸座敷の主人がワケがあって近々廃業帰国することになり、家財も娼妓もついたまゝ八千円で売りに出ているが、この商売なら五年もかゝれば元利をきれいに返済出来る見込みがある。自分も悲しい苦界づとめのおかげで、この商売の経営には自信があるのだが、アア、お金がほしい……。
 左近はこの言葉を小耳にとめたが、それは知らぬ顔。とにかくポンと気前よく三百円だしてやって、二人を結婚させた。さて八千円かして二人に貸座敷をやらせると、どう云う事に相成ろうか。月々貸した金の利息をとりに行って、その日はゆっくりとたゞで傾城の部屋へ坐っていろ/\と女の話をしたり、手や膝がふれるとか、まアなにかのハズミでいろいろ思わぬタノシミができるであろう。左近はそう考えめぐらすだけで、なんとなく楽しい毎日をすごした。
 彼は勿論本当に八千円の金を貸してやろうなぞと考えていたわけではなかったが、ちょうどそこへ勘当して以来二十五年も音沙汰のなかった志道軒ムラクモが女房子供をつれて親不孝のお詫びにと訪ねて来た。女房は芸者あがりの恋女房、春江といって三十。久吉という十になる一人息子をつれて高価な手みやげを持って訪ねて来た。自分は幇間をやり、女房にはチョッとした一パイ飲み屋をやらせて生活には困っていない。たゞなつかしさに一目だけでも拝顔して重なる不孝のお詫びをしたいと矢も楯もたまらずという、そこは多年の幇間できたえた弁舌、情味真実あふれて左近の耳にも悪くはひゞかない。
「ペラペラとよく喋るな。その舌でお金をかせぐのか。薄気味のわるい奴だ。お茶坊主のように頭をまるめているが、腹は黒いな」
「恐れ入ります」
「金が欲しかろう」
「慾を云えばキリがありませんが、毎日の暮しには事欠いておりません」
「慾を云えばいくら欲しい」
 ムラクモは父の薄笑いを満身にあびてゾッとした。その薄笑いは悪い病気をやんでいるようだ。笑いが病気をやむというのはおかしいが、水野左近が笑っているのではなくて、一ツの薄笑いが彼の顔にのりうつっているように見える。その薄笑いが何か悪い業病につかれているようだ。ひょ
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