ほかには生きる目的がないのであろう。
 左近はようやく忍び笑いを噛み殺して、
「そのとき、な。オレが、なにか、やる。一ツのキッカケをな」
 彼はまた、たまりかねて忍び笑い、それを噛み殺すために幾条もの涙の流れをアゴの下まで長くたらした。
 彼はもう言わなくとも分るだろうというように、いかにも、さもあるべしというかの如くに、いくつとなく、うなずいた。
「な。面白いことになるぞ。これは、誰にも云うな。見たかったら、お前も夜中に窓の外へ忍んでこい。その音がきこえるだけでも、おもしろいぞ」
 そうささやいて、自分の口に指を当てて、沈黙を命じ、手ぶりで去れと命じたのである。それが明晩、水野家に於て起る予定の出来事であった。
 倉三は語り終って、酔いもさめ、ぐったり疲れきってしまった。
「怖しくって誰にも打ちあける勇気がありませんでしたが、はじめてあなたに打ち開けて、自分でもこんなことを物語っているだけでも夢を見ているようでさア。私はとても窓の外へ忍んでくるほどの度胸はありませんが、大原の旦那、明晩はとにかくタダじゃアすみませんぜ」
 草雪も聞き終って、しばしは呆然と口をつぐんでいるのみであった。ようやく、ホッと息をついたが、このようなケタの外れた話については、きいたり、語ったりすることが見当らなかった。
「お前さんは常友さんの吉原の貸座敷とやらへ落着くのじゃないのかね」
「とんでもない。お清はとにかく、私はアイツの子供の時から、親のようにしてやったことは一度もありませんので」
 云い終ってから倉三は、思いだしたようにちょッと頭をかいて、
「実は野郎が嫁をもらって女郎屋をやるときに、私と野郎の親子の縁は――戸籍の上のことではありませんが、旦那の前で起請をとって、フッツリ手を切るようにさせられましたようなわけで。ヘッヘッヘ」
 倉三の最後の笑いは、なんとなく未練がましくひびいた。

          ★

 翌朝、倉三は帰国の旅についた。
 そのあとで、水野家へどのような人が訪ねてきたか、物好きの草雪も一日見張りをつづけるほどの根気があるわけではないから、来客の姿を目で見たものはなかったのである。
 なるほど夜になってから数名の声がきこえはじめたのは、酒宴のせいらしい。ケチンボーの左近はランプもローソクも用いずに、いまだにアンドンを使っていた。
 酒宴は長くつづいて、いつまでもキリがなく人声がきこえてくるが話の内容は分らないし、果して酒宴の人声であるか、口論だか交驩《こうかん》だか、そういうこともシカとは見当がつけられない。酔っ払って唄をうたうようなのは一度もきこえなかったが、酒宴の事情が事情だから、唄のないのが自然であろう。もっとも、志道軒ムラクモというその道の専門家がいるから、この人物は親父の死に目やムシ歯の痛む最中でも唄って唄えない仁ではなかろう。左近の声だけは一度もきこえないが、地声が低いからきこえないのが当然だった。
 隣家にあまり険悪な様子もないので、早寝の草雪は自然にねむくなって、いつのまにやらねむりこんで、翌朝、太陽が高くあがるまで目がさめなかった。
 おそい朝食をすまして、ゆっくりお茶をのんでいると、着流しの平賀房次郎が窓の外からヌッと顔をさしこんで、
「相変らず早寝の朝寝のようですなア。ゆうべは珍らしく隣家に多勢の来客があって、おそくまで賑かでしたが、どうも、それで、ちょっと気になることがあってなア」
 草雪はハッとして、
「エ? 気になることがありましたか。それは、いつごろのことで」
「イエ、今のことですよ。三日前から馬丁の倉三君の奉公が終ったとかで、早起きの老人が早朝から馬にカイバをやって、馬小屋の世話を念入りに見ていたものですが、今日はまだ誰も馬の世話をしてやった者がない。馬が腹をすかして羽目板を蹴っているが、早起きでキチョウメンの老人がどうしたのやら。多勢の来客も泊ったようだが、誰か起きてきそうなものですがなア」
 午後になっても誰も起きてくる者がない。妙だというので、二人の隣人が警察へ知らせて、警官とともに、中へはいろうとすると、勝手口も、居間の潜り戸も内からカギやカンヌキがかかっているらしく、外からはあけられない。窓をしらべても、頑丈な格子がはまっている上に雨戸も堅く閉じられていて、猿や猫でも出入できるような隙間がなかった。ようやく勝手口をこじあけて中へはいると、実にサンタンたるものである。
 台所の次の部屋にはミネがノドを突いて血の海へうつぶしてことぎれている。ヒザをシッカとヒモでむすび、自らノドを突いた覚悟の自殺のようであった。
 さて、この部屋につゞいて左近の専用室が二つあるそうだが、出入口は一ヶ所幅三尺、高さが六尺の厚い板戸によって仕切られている。この一枚の板戸以外は厚い壁になっていた。板戸は左近の
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