でてくるのである。「今日はその日ではない」と確信的に云いきった英信は数十分後に不審な挙動で戻ってきて、甚しく混乱していたようである。そして、その混乱の理由は、「その日ではない」筈のことが、「その日である」ことに変った意外さに、混乱したと見ては不可《いけな》いであろうか。事実はまさしく、英信にとって「その日でない」筈のことが、その日になっているのである。もう一つ、「時期」について、重大なことがあった。藤ダナの下で、英信は風守が大病であり、近々死ぬということを確信的に光子に語っているのである。これも亦フシギな謎であった。早急にとける謎ではないようだ。
新十郎は光子にきいた。
「あなたが風守さまをごらんになった時のことを、よく思いだしてきかせて下さいませんか」
光子は一度考えたが、諦め顔になって、
「特にお話申上げるような印象はございませんの。この家や宿を出発するとき、宿へついたときに、カゴを降りなさるのを、ちょッとお見かけしただけですから」
「話し声はおききになりませんでしたか。笑い声とか呻き声でもよろしいのですが」
「いいえ。ついぞお声をおききした覚えはございません」
そう言ってから光子は顔色を変えて叫んだ。
「イエ、一度だけ、お声をききました。あの怖しいお声。火焔の中でお叫びになったたまぎるような声でした」
新十郎はそれをいたわるように、やさしく、また彼自身もいたましげに顔をくもらせ、
「それは、どんなお声でしたか? 似たような声をおききになったことがありますか」
「いいえ、似たような声などとは、とても。ただ怖しい叫び声でした。思いだしても、身がすくむように感じられます」
「風守さまは駒守さまと同じような、岩のようなお体格でしたか」
「いいえ似ているところはございません。長いマントのようなものを身につけていらしたから、たしかなことは分りませんが、むしろ痩せて弱々しいお体格に想像されます」
「さきほど、風守さまは天才だと仰有いましたね。そのワケはなぜでしょう?」
「十一二から十八までの詩文のお作品を拝見いたしたからです。難解で正しい観賞はできませんが、そのように思ったのです。この奥の座敷牢に、まだソックリある筈でございます」
光子は無学をはじらッてか、顔をあからめて答えた。新十郎は彼女から訊きうるすべてを訊き終ったので、座敷牢へ案内してもらった。詩文の稿本は
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