が生れると、本家へひきとられて養子となった。それが風守であった。
 生れたての海の物とも山のものともつかぬ風守を後嗣に選ぶということは、風守と木々彦の能力比較には無関係のことで、つまり神人たるべき家柄だから、人界の風習に一指もふれぬ教育が必要で、したがって生れたばかりの風守が選ばれ、すでに多少、分家の子供として発育した木々彦がしりぞけられたのだ、という説がある。
 しかし、村人たちには今に伝わる秘密的な一説があり、駒守は水彦を好かなかった。否、末ッ子の土彦を溺愛していた。稲守の死が土彦の分家以前であったら、なんの躊躇なく駒守は彼を後嗣に直したろうが、あいにく直前に結婚して分家したばかりであった。そこで土彦に子供の生れるのを待って養子に迎えたのだと云われている。とにかく、神格化された族長家に、一年間も、否、たった一ヶ月間でも、後嗣たるべき人物が空白だということは由々しいことだ。一族の柱たる族長家だから後嗣が空白のうちに族長に万が一のことがあったら、全体の支柱を失い、民族のホコリを失うのである。それを敢てして、土彦に長男の生れるのを一年間も待ったというのは、土彦の子供でなければ後嗣にしたくないという駒守の気持ちがよくよく強かったのだろうと村人は判断したのであった。面目を失ったのは水彦であった。
 風守が生れると、いったん分家した土彦夫婦は風守とともに本家の邸内に起居することになった。風守の離乳期まで、という意味に人々は解したのである。ところが、足かけ四年の歳月がすぎ、風守の母は死んでしまった。これがまた秘密伝説の一つであるが、彼女の死は病死ではなく自害だという風説があった。
 なぜなら、風守が本家の後嗣にふさわしい素質すぐれた子供ではなく、やたらにヒキツケを起すテンカンもちであったからだ。テンカンにも色々あるが、風守は人デンカンというのである。知らない人を見るとテンカンを起す。およそ族長の後嗣として、これぐらい困った素質はない。威儀をはって氏族の者どもを引見すべき族長がその時テンカンを起してはたまるまい。駒守が当然の順序をあやまり、強いて風守を選んだための天罰だという説もあるが、それは駒守を神とみる村人たちの公認を得たものではない。彼らにとっては神たる駒守が天罰をうけることを認めるよりも、神の選んだゆえにテンカンもちの風守をも神と認める方をとるのであった。しかし、天罰は
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