ては二十三年前、風守が生れる前後のことから話をしないと分らない。
多久《たく》家は八ヶ岳山嶺に神代からつづくという旧家であった。諏訪神社の神様の子孫という大祝家よりももっと古く、また諏訪神社とは別系統の神人の子孫だそうだ。武家時代でも領主の権力がどうすることもできなかった根強い族長で、また系譜を尊ぶ封建時代には領主もシャッポをぬがざるを得ぬ名門であり豪族であった。したがって、多久家の本家というものは、部落に於ては領主以上のもの、神様のようなものだ。こういう豪族の生態には古代の族長制度の頃の感情のようなものが生き残っていて、本家と分家に甚だしい差があり、同じ兄弟でも本家の嫡男たる兄と、分家すべき弟にはすでに雲泥の位の差があること、生れながらにして神たる兄とその従者たる弟のような育てられ方をするものだ、ということを忘れてはならない。
多久家の当主は多久|駒守《こまもり》、当年八十三という老人だ。彼は壮年のころ、怒り狂う猛牛の角をつかんで、後へ退くどころか牛をジリジリ押しつけたという程の豪傑であった。もちろん人間業ではない。神人たる所以だというが、いくら神様の後盾があっても、よほどの怪力がなければできないことだ。
彼には男の子が三人あった。稲守《いなもり》、水彦、土彦という三名である。守の字がつくのは本家の後嗣たるべき長男に限られ、分家すべき弟たちには彦の字がつく。これが多久家の代々の定めであった。
長子の稲守は三十の若さで死んだ。彼には子供がなかった。そこで、弟の水彦、土彦両名の子供から一名を選んで本家の後嗣にすることになった。ところが、水彦には木々彦という男子があったが、土彦はまだ結婚したばかりで、子がなかったのである。
水彦は次兄であるし、おまけに孫はその子の木々彦一人なのだから、文句なしに木々彦が本家の養子になりそうなものだが、駒守はそうせずに、選定を後日に残した。なにぶん駒守は怒った牛の角をつかんでジリジリ押しつけたという伝説をもつほどだから、生きながらにしてその威風はスサノオのミコトと大国主のミコトを合わせたように神格化されて、怖れかしこまれ尊ばれている。その生き神様のオメガネに易々《やすやす》とかなうことのできなかった木々彦は、そのために村人になんとなく安ッぽく見られるような貧乏クジをひくメグリアワセになってしまった。
それから一年後、土彦に長子
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