忘れた。あんたは誰だ、というお久美さんの心もしみじみ分る気がするなア。貧乏人は金持になりたがったり、あこがれているかも知れんが、自分がドン底へ落ちているのに、二十年前に生き別れて死んだと思った亭主が金持になって現れては、今の自分の境遇以外は忘れたかろう。金持の幽霊よりも、今の自分がなつかしかろうよ。本当に昔が忘れたいに相違ないなア」
「そうですかねえ。貧乏人のヒガミですよ」
「イヤ、イヤ。お龍さん。あこがれたものが呆気なく目の前に出てきてみると、人間は今の自分が大事なことが分るものだよ」
 一力の言葉に力なくうなだれて声もないのは正二郎であった。
 駒子の口から改めて正二郎と同じことをきかされると、お園にはそれが別の、なにか浄ルリをきくような切ない宿命を感じさせられたのであった。駒子は母と姉が殆ど気乗り薄にこの邸へ同行してきたことを知らなかった。彼女には、母と姉の言葉をききだそうとする余裕などはなかったのである。悲しく張りわたって、自然に曲をかなでる琴かのように、とめどなく、語らずにいられない駒子であった。
「姉さん。私はどうなるのでしょうね」
 駒子の口から思わずその言葉がもれた。妖
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