のである。慶長十八年四月病死した。
 長安は死に先立って妾たちに遺産分配の金額を書きこんだ遺言状を一人一人に渡しておいた。同時に長男の藤十郎にも遺言して、妾たちの遺産分配を必ず実行するようにと堅く申しつけておいたのである。長安先生色道の大家だけのことはあって当時異例の大フェミニストであったのだ。
 ところが長安の死後、藤十郎は妾たちに約束の遺産を分配してやらなかった。そこで妾たちは立腹し、立派な遺言状を持っているから堂々と訴訟を起したのである。訴えをうけた家康が長安の私宅や、諸国の金山銀山に所在する長安支配の倉庫などを調べさせると、公儀へ届けでずに隠しておいた金銀その他日本第一流の骨董類の山のごときイントク物資が現れてきた。
 おまけに切支丹信仰の証拠が現れ、外国を手引きするとか、内乱の準備とおぼしき品々や連判状のようなものまで現れたそうだが、これは当時の伝説で、事実ではなかろうという話である。しかし当時の人にこう信ぜられていたのは確かである。この結果、その連判状の如きものを理由に、何人かの大名が罪をうけた。
 藤十郎一族はハリツケになったが、ここに哀れをとどめたのは訴えでた妾たちで、
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