の神の信仰は闇夜に行われるものだそうで、鳥居のたて代えも闇夜に誰がやっているのか、知る人もなかったし、気をまわす者もなかった。どんな人間が信仰しているのか、それを問題にする必要もなかったのだ。
 ところが川越の近在で酒造業をやっていた男が、せっかく仕込んだ酒を、樽を叩きこわしてみんな土にすわせたアゲクに、
「ワレこそは先祖代々タナグ山の神霊に仕えてきた神の血をひく家柄で、酒造業は時至るまで世を忍ぶ仮の営み、ワガ本名は和具志呂足、ワガ長女の名は比良、長男は須曾麻呂、次女は宇礼と名のる。すべて神慮によって定められた神族の神名である。神託によって本日より公然と山の神の祭祀一切つかさどるであろう」
 と名乗りをあげた。つもる負債に発狂したという説もあり、佯狂《ようきょう》だという説もあった。
 しかし彼の病気の治療がフシギにきく。占いが当る。そういう評判がたつようになって遠路訪れる病人もあり相当繁昌するようになった。
 その評判をきいて、長い病気に悩む玉乃が志呂足の施術を乞いにでかけた。フシギや日増しに力もつき、心気とみに冴えて、血色もよくなったから、玉乃はたちまち志呂足を生き神様と狂信するに至った。これだけで済めばさほどのこともなかったろうが、ここに千代の一大心痛事があったのである。ほかでもないが、一粒種の東太の智能が低いのである。父は素人日本一とうたわれた碁の打ち手、母とても結婚後習い覚えた碁が東太が三ツになる時には素人天狗を打ちまかすほどに上達した利巧者、二人の仲に低能が生れる筈はないから、よほどオクテの大器晩成塑。むしろ大物が育つのかも知れないなどと先を楽しみにしていたが、いつまでたっても智恵がつかない。日に日に心痛が深まり、いッそわが子を殺して一思いに死にたいと思うほどの悲痛な心境になっていた。折から玉乃が志呂足を信仰してメキメキと元気になり、義母の千代にも信仰をすすめるから、目の前にその実際を見ては心の動くのも当然だ。そこで東太をつれて志呂足を訪ねた。
 志呂足は東太母子をむかえて、いと満足げにうちうなずき、
「ソチたちがここへ来ることは、とうに私は知っていたよ。東太にはタナグ山の神霊の怒りがタタリをしている。ソチの祖先が神様の山を金で買って所有したのがいけないのだよ。そのタタリが東太に現れ、またそのタタリを私がといてやることがチャンと定められているのだから、何も心配することはない。ソチの家がタナグ山の神霊の化身たる私の神殿となることも太古からの定めであるから、ただ今からソチの家へ引き移る。東太のタタリは津右衛門の二十一周忌の日にバラリと解けて東太は立派な男になるぞよ」
 こう云って、一族をひきつれさッさと千頭家へ引越してしまった。おぼれる者は藁のタトエで、千代にはそれを拒むことが、できなかった。それが今から十年ほど前のことである。
 それ以来、千代は様子を見ていたが、東太の頭の発育に見るべきような変化は現れてくれないが、なにがさて、津右衛門の二十一周忌の当日に至ってバラリとタタリが解けるのだという。ちゃんとはじめにこう宣言がしてあるのだから、変化がなくとも文句も云えない。果して実力ある行者であろうか、山師ではあるまいかと、日夜に思い悩んでいるうちに、ウバ桜とはいえ美貌の玉乃は志呂足の情婦とも妾とも侍女ともつかぬ得体の知れないものとなり、地伯もいつか狂信して、志呂足の長女比良をめとり、千頭家の番頭よりも、山の神の忠実な玄関番になってしまった。下男も女中もみんな志呂足の信者となって、広い邸内に千代の味方は一人もいなくなったのである。
 千代は心細さにたまりかねて、兄の天鬼に相談した。心のよからぬ兄ではあるが、得体の知れない行者にくらべれば、どれぐらいタヨリになるか分らない。利にさとく、人心の表裏に鋭く眼のはたらく兄であるから、心がねじけているだけ志呂足の敵手としては手ごわい手腕を現してくれるかも知れない。それを心だのみに天鬼に相談すると、天鬼は苦笑して、千頭家へ遊びに現れ、一ヶ月の余もユックリ滞在して志呂足の正体を観察していた。
「イワシの頭も信心からと云う通り、人間は気の持ちようで多少の病気はなおるようだな。しかし死病の人が生き返ったり、バカが利巧になることはあるまい。あの志呂足は食わせ者さ。東太を憐れむ余りとはいえ、あんな食わせ者に屋敷をかしたお前もバカだな。だが、今となっては仕方がない。二十一周忌に志呂足のツラの皮をひんむいてやるから、それまで待つがよい。東太はオレが秩父へつれて帰って、仕込み甲斐もなかろうが、多少は智恵のつくように手をほどこしてやろう」
 愛児を手ばなすのは心もとないが、志呂足一味の中におくよりは兄の手にまかせた方が無難かも知れないと、千代もその気になった。ところが、この話を伝えきいた志呂足が思いもよ
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