千代の腕にだかれていた三ツの東太は二十三の男ざかりとなったそうだが、どこにいるのやら挨拶にも出てこないし、姿を見かけたこともない。その代り妙な人間がタクサン住みついている。
千代の弟の地伯がここに住んでいるのは、まだ話が分るが、地伯の細君比良の一族、父の和具|志呂足《シロタリ》、比良の弟の須曾麻呂、妹、宇礼《ウレ》の父と子三人がそっくり住みついているのである。志呂足は山の神の行者で、病気を治し、悪魔疫病をはらい、吉凶禍福を占う。バカに人の出入りが多いな、と思ったのは理《ことわ》りで、日中は山の神の信者が相当数訪れるのである。津右衛門の先妻の子で、肺病の玉乃、今はもう三十九のウバ桜であるが、どうやら行者志呂足の愛人とも妾ともつかないような関係ができているらしい。
二十年も昔のことで、甚八は津右衛門の命日を忘れていたが、誘われるままに来てみると、すぐ命日かと思いのほか、法要の当月までにはまだ一週間も間があるのだ。
「どうも、変だな。何かあるんじゃないかな」
と、そこは生馬の目をぬく賭け碁の大家甚八、鋭い眼力で、なんとなく怪しい気配を感づいた。
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地伯が姉の婚家へころがりこんできたのにはワケがあった。父の兆久が死んだのは今から十五年前のことである。安倍家は秩父の豪家であったが、兆久に事業癖があって、鉱山に手をだしたり、陶工をよびカマをつくって大々的に陶器をやかせて失敗したり、山気を起して江戸を往復するたびに先祖伝来の莫大な財宝をすりへらして死んでしまった。
安倍家をついだ長子天鬼は親の山気を慾気の方へうけついで、強慾のケチン坊。弟の地伯に天保銭一枚わけてやるのも惜しいのである。兆久が死んで二十日ばかり経たころ、弟をよんで、
「お前に分家もさせぬうちに父が死んでしまったが、財産をしらべてみると父が使い果して、めぼしいものは何一ツ残っておらぬ。そういう次第でお前に分けてやるような田畑も金もないが、幸い長の山の山林だけが残っている。それをそッくりやるわけにはいかぬが、長の山には平地があるから、お前一人の腕で今年一年かかって山をきりひらいて畑にしただけくれてやる。明日からさッそく仕事にかかるがよい。しかし、人手を頼んではならないし、また今年一パイきりひらいた分だけだぞ」
時は三月はじめであるから、年の暮までには相当ある。地伯は兄の厚意をよろこんで、翌日から雨風にもめげず、日のあるうちは開墾にかかる。なれない労働だが、働く分だけ自分のものになると思えば、夢中であった。と、半月ほどすぎたころ開墾の現場へ役人がきて、彼を捕えて牢へぶちこんでしまった。そこは安倍家の山林ではなく、他家のものであった。
地伯は役人に哀訴して、兄の天鬼にきいてくれ。兄がこれこれ云ったのだから、兄の思いちがいなら、兄がなんとかしてくれるに相違ないから、とたのんだが、役人が天鬼の言葉だと伝えたものは、
「とんでもない。あのバチ当りめが。長の山は今ではウチの山ではないと云ってきかせても、そう云ってオレをだましてオレに何もくれないツモリだろうと一人ぎめに開墾をはじめた悪者でござる。ウンとこらしめて下され」
という返答だった。幸い微罪によって一月ばかりで釈放されたが、わが家へ戻ると、一足も玄関へ入れず、お前のような悪者はただ今かぎり勘当だ、と突きだされてしまった。仕方なく姉の千代をたよって千頭家の居候になったのである。
姉の千代はお人よしで気の小さい地伯をあわれんで、番頭代りに帳づけなどの仕事に当らせた。先妻の遺した玉乃が病身ではあるが、一ツ玉乃が年上の似た年ごろ、ゆくゆくは二人を一しょにさせて幼い東太の片腕にもと千代は考えていたのである。
ところが、好事魔多し。千頭家の広大な地所のうちに、タナグ山という海抜四五〇|米《メートル》ぐらいの相当な深山がある。山の入口に小さな鳥居があって、これを山の神というのであるが、さて鳥居をくぐって山の奥へどこまで行っても、どこにもホコラがあるわけではなく、どこが山の神の所在地だか誰にも分らない。山の神というものは、どこの山の神でもそういうもので、まア頂上、むしろ山全体が神体なのかも知れない。タナグ山には登山道すらもない。頂上へ行くには谷を渉《わた》り岩をよじ道なきところを這いまわらねば行かれないが、どこの山でも昔はたいがいそういうもの。登山という遊びが流行して以来名山高山には一ツのこらず道がついたが、全国の名もない小山は登山家の対象にならないから中腹ぐらいまでキコリの道がある程度で、頂上までの登山道など先ずめッたに在るものではない。
タナグ山は昔から何人かの信仰があったらしく、その麓には誰がたてたのか小ッポケながら鳥居があり、それが古くなると、いつのまにか誰かがたて代えて今につづいていた。すべて山
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