り前の文字であるが、その次から風が変って、字ではあるが、読みようのない文字である。
「人左川度。キウンヨザギンブ。クレビラキ。当家大明神大女神也」
 こう書かれていた。
 千代は考えたが、分らなかった。それを紙片に書きとり、系図を元の場所へおさめ、折にふれ紙片をとりだして考えふけったが、どうしても、手がかりがない。
 四十九日がきて、近在の人々が集った。そのとき、江戸から回向にきてくれた碁打の一人が、
「人の話では、仏は勝碁の途中になくなられたとのこと、神田の甚八に四目置かせて勝碁とはさてさて怖しいことでござるが、棋譜は書きとめでございませぬか」
 千代もこれには参った。亡父最後の勝局、この譜を残しておかなかったのは残念だが、あの唐突の死に際してそんな余裕のありうる筈のものでもない。
「私もそれを残念に思いますが、終盤ちかくチラと見ただけの盤面、しかと覚えておりませぬ」
「甚八と申せば江戸の素人天狗は三目でもめったに歯の立たぬ豪の者。まず二段はたっぷり打ちましょう。甚八に四目置かせて勝つなどとは名人と雖《いえど》も考えられぬことでござる。棋譜の知られぬは残念千万でござるのう」
「うち見たところでは白によい碁ではございませぬ。黒は置き石を生かして白を圧迫し、黒に充分の碁ですが、隅の黒石に平凡な死に筋があるのを見落して、せっかくの好局を負けにしたのでした」
 千代はこう答えて、目にアリアリと黒の見落した筋を思い浮べた。その時、千代の頭にひらめいたのは、その手筋であった。彼女は顔色の変るほど驚いた。彼女は腹に力を入れて、ウンとこらえた。しばしして、人に顔色をさとられぬうちと座を立って、わが部屋へ逃げこんだが、その踏む足もウワの空、宙を踏む夢心地である。
「アア!」
 彼女はフスマをしめて部屋にはいり、崩れるように坐りこんだ。断末魔の津右衛門が指さしていたのは、一つの方角ではなかったのだ。すぐその指の先にあるもの、碁盤なのだ。のたうちまわって前へ前へすすみつつも、指さしていたのは、たしかに碁盤であった筈。然り。たしか碁盤そのものであったのだ。
 甚八が見落していた手筋というのは、敵の石をとって二眼できたとき、とった石を又とり返される筋があるのを見落していたのである。甚八ほどの打ち手が見落すのはフシギであるが彼は血迷っていたのであろう。この手筋を碁の術語で「石の下」と云うのである。
「石の下!」
 津右衛門の言いたい言葉はこれだったのだ。人々の噂する金箱が、もしも隠されているとすれば、石の下なのだ。
 その日から千代の思案と探索が新しく再びはじめられた。しかし謎も解けなければ、どの石の下とも判断の下し様がなかった。千代は遂にあきらめて、東太が成人したら、すべてを東太に明かして、東太の力で探させようと思ったのである。
 それから二十年すぎた。そして新しく事件が起るのである。

          ★

 あのときから二十年たって、甚八は立派な棟梁になっていた。デップリふとって、目から鼻へぬけるような鋭いところは表には現れていないが、碁は相変らずの好きな道で、石を握れば、今もって江戸の素人では並ぶ者なし、彼を打ちまかす新進の素人天狗は一人もでたことがない。折にふれて思いだすのは千頭津右衛門のこと。
「彼奴ばかりはメッポウ強かったなア。オレを打ち負かした素人碁打は天下に彼奴一人だが、よくもこッぴどく打ち負かしおったものだ。オレを負かしてトタンに血を吐いて死んだのも、鬼神の力を借りてオレに勝ったがために、約束によって鬼神にイノチを召されたのさ。さもなきゃオレに勝てやしねえな」
 と、ウヌボレはいくつになっても治らない。この甚八のところへ、ある日、千頭家から使いの二人の男が現れた。中年者は安倍|地伯《チハク》といって、津右衛門の寡婦千代の実弟。その連れの若い男は地伯の妻|比良《ヒラ》の弟で和具須曾麻呂《ワグスソマロ》という者であった。その口上をきくと、津右衛門の二十一周忌の法要を営むについて、仏の急死に縁の深い甚八にもぜひその席につらなっていただきたい。急死に縁が深いといえば語弊があるが、二十一周忌という昔話になれば、あれもこれもなつかしいばかり。仏もさだめし甚八を、また彼との最後の対局をなつかしんでいるであろう、というような話であった。こう云われてみれば甚八とても、なつかしさはこみあげてくる。
「もう二十一周忌かねえ。早いものだ。まったく、なつかしいねえ。そうですかい。それじゃア、何をおいても、お供させていただきましょう」
 さっそく旅支度をととのえ、二人に案内されて、川越在の千頭家へおもむいた。きいてみれば、村の姿も、建物も昔に変るところがない。変ったのは、人の姿ばかりである。甚八がはじめてここを訪れた時は、彼の頭も人の頭もチョンマゲだった。
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