天鬼はもがきつつ、うごめいた。虚空をつかみ、タタミをむしりつつ、一寸二寸、うごめき進んだ。時々、碁盤の方向を指そうとして、苦しさに虚空をつかんだ。
「こんなか!」
「そう」千代は呆れ果てて、いい加減に返事した。必死の天鬼は妹の返事の寸分のユルミも見のがさなかった。
「コラ。ハッキリ、本当のことを云え。本当にこんなか」
「ほんとに、そうよ」
千代の驚きは絶大であった。必死の一念とは云え、天鬼はまるで津右衛門の死を見ていたように同じ死の苦悶を再現しているではないか。津右衛門には言葉がなかったが、天鬼にはもどかしさに狂ったような言葉があった。そして張り裂けるような狂気の喚きが、それ自体、まさに死なんとしつつある人の叫喚でなくてなんだろう。まさに天鬼その人の、もがき、のたうつ断末魔の姿であった。
しかし千代は気がついて、ゾッとした。天鬼は憑かれたように津右衛門の断末魔を模倣しつつ、チラと碁盤を指さす瞬間に、実に全部の魂魄を目にこめて指の方向をはかっているのだ。その先に何があるか。彼の全ての精魂がそこにかかっているのである。
兄と父はそれからの二日間、庭園を、庭園の外の山の中をブラブラ歩いていたが、三日目に秩父の自宅へ戻って行った。
★
ちょうどその頃は薩長軍が江戸をさして攻めのぼってきた時であった。山ちかい辺地とても、流言のざわめき、軍靴の恐怖はたちこめている。農民とても、安閑としてはいられない気持であるが、特に金持の豪農は掠奪の恐怖に苦しんだ。津右衛門が死んで一ヶ月ほどたって、上野寛永寺にたてこもった幕府軍が敗走し、戦火が次第に関東から奥州へと延びる気配になったころ、父の兆久と兄の天鬼が三十五日の回向かたがた現れて、
「どうだ。ここも迫ッつけ戦場になるかも知れんし、よしんば戦場にならなくとも、敗走する兵隊や押込み強盗の群れが入りこんでくるにきまっている。そのときになって慌てて逃げても、もうはじまらぬ。津右衛門殿なきあとは、女手と幼児ばかり。屈強な豪の男がいなくては、このドサクサに、人の目をつけやすい土蔵の金箱や品物を無事守り通せるものではない。私が一日のうちに二百人三百人の人足を集めて、この家の品物全部たった一夜で荷造りしてやるから、今のうちに私のところへ引移ってくるがよい。あの山奥の秩父だけはたった一ツの安全地帯だから。この家はいずれ泥
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