さいて外套膜に手をふれると、にわかに緊張して、不思議そうに一同を見廻した。
「ハテナ。こんなところに大きなコブが。まさかに、これが……」
 彼はナイフをとりあげて、注意深く肉をそいで行った。やがて指をさしこんだ彼は、まるで泥棒と組打でもするかのように、口を結んで顔をゆがめた。彼の指がつまみだしてきたものは、黒色サンゼンたる正円形の大真珠。なんという大きさだろう。今まで採った最大のものを五ツ合せても足りないほどの大きさである。実に三百グレーンの世界に無二の黒色大真珠であった。
 清松はその真珠を借りうけて、眺め入った。黒蝶貝といっても、主として中から現れるのは銀白色の真珠で、黒色の物が現れたのは始めてだった。なんという光沢だろう。あの月輪のような光沢の輪が、黒く冷めたく無限の円形を描いて人の心を冷めたく珠の中へ吸いこんで行く。その珠はやや大型のラムネ玉ほどの物ではあるが、その奥の深さは無限なのだ。宇宙と同じ深さが有るとしか思われない。
「怪物のような老貝には、さすがにこんな宝石があるのだなア。せっかくオレの手で貝を採りながら、この宝石が自分の物にならないのだなア」
 その日から、海底へ潜る清松の気魄が違った。彼が宝石を選ぶ順は三番目だ。同じような宝石をもう二ツ採れば一ツは自分の物になるのだ。ようし、必ず探してみせる。それは不可能なことではない筈だった。尚海底は無限の老貝を蔵しているのだ。
 彼は必死に老貝を探した。怪物中の怪物を物色して、一時も長く水中を歩きたいと念じつづけた。それから四十五日たった。二度目の四十五日。それは不思議な暗合だった。彼は白蝶貝の未だ曾て見ぬ巨大なものを見出したのである。彼はそのヒゲをきりとるのに相当の時間を費したほどであった。
「ほう、今度は白蝶貝の主だな」
 貝を一目見て畑中は軽く呟いたが、清松のただならぬ顔を見ると、ゾッとして口をつぐんだ。殺気であろうか。何か死神の陰のような陰鬱なものが、その顔から全身から沈々と立ちのぼっているように見えた。
 作業を終って昇龍丸へ帰ると、清松は畑中に頼んだ。
「済みませんが、その白蝶貝だけ、今さいて見せて呉れませんか。中が見たくて仕方がないものですから」
「そうかい。なるほど、こいつは確かに白蝶貝の主だなア。これを採っちゃア中があけてみたいのは人情だなア」
 そこで一同を甲板へ集めて、その老貝だけさいたのである。はからざることが起った。黒真珠の更に倍もあるような、白銀色サンゼンたる正円形の巨大な真珠が現れたのである。実に五百三十グレーン。世界最大の真珠である。古来の伝説に於てすら語られたことのない巨大な真珠であった。
 その真珠を手にうけとって眺めまわしていた清松の額から冷汗が流れ、目が赤く充血してきた。吐く息が苦しくなった。人々は呆気にとられて彼を見つめた。清松は黙々と宝石を畑中に返した。すると彼はそのままゴロリと後へ倒れた。
「アアッ!」
 叫んだのはトクと八十吉とキンと竹造と同時であった。トクは走り寄った。
「潜水病だ!」
 八十吉は仁王立になって、
「まだ陽もある。波も静かだ。海底へ降してふかすのだ。早く手当てすれば、早く治るのだ。潜水船を降してくれ」
 清松は巨大な真珠に盲いて無理をしたのである。老貝を探すために一時も長く海底を歩こうとした。老貝を探してつい深海へも降りて行った。その無理からである。ふかす、というのは当時に於ける唯一の療法。自然にあみだした日本潜水夫の療法だが、理にかなっているのである。つまり病人をもう一度深海へ降すのだ。軽症ならば、深海へ降すと、そこにいるうちは治った状態になる。これを徐々に上昇させて、くり返すうちに全治させる方法であった。
 幸い清松は軽症だった。肩から両手にかけて、又、膝の下に痺れが残った程度で、三日もたつと激しい苦痛はなくなってしまった。
 積みこんできた食糧や水の用意が心細くなっていた。しかし清松をふかさなければならないので、畑中は一同が帰国を急ぎたがるのを制していたが、五日すぎて清松の身体に肩の痺れが残っているだけ、もう水中へ降さなくとも自然に全治すると分ったので、いよいよ出帆、帰国ときめる。その晩は酒を配って長々の収穫を祝う。
「さて、明日は一同に真珠を分配するぜ。まったく木曜島あたりじゃア想像もつかないような大収穫だ。帰国の途中には広東や杭州などのシナの賑やかな港によるから、早く金に代えたい者は代えるがよい。一番不足の取り分の者でも、三万や四万円にはなるはずだ。世界一の首飾りの玉の一つになるようなのを誰でも一ツニツは手に入れるのだから豪勢だ。真珠は銘々が控えもあることだし、一ツも不足なく金庫に眠っているから、明日を楽しみに今日はゆっくり飲むがよい」
 そこでその晩は大酒盛りになった。畑中は特に八十吉夫婦と
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